江戸幕藩体制の幕末藩名と廃藩名

赤字は掲載城名

国名 藩名 所在地 最後の藩主名 譜外 石高 城・陣 廃藩事由等
蝦夷 北海道厚沢部町城丘 松前修広(ながひろ) 外様 3 城主 松前徳広、厚沢部館に新城を造る。戊辰戦争の戦功で二万石をもらい本拠を松前から館城に移し立藩
松前(福山) 北海道松前郡松前町松城 外様 城主 関ヶ原後慶広、家康に支配権を認められ立藩。経済基盤はアイヌとの交易運上税と砂金の採集等。1719年に大名格。章広の時ロシアの南下政策で、一時全島上知され陸奥他に移封。崇広の時防備の為陣屋を改め築城す。日本最後の旧式城郭。崇広は老中格に外様ながら昇進。幕末藩論は分かれたが函館府の設置で新政府に。落城。館へ
陸奥 八戸 青森県八戸市内丸 南部信順(のぶゆき) 外様 2 城主格 盛岡藩主南部重直、後継未定のまま死去。幕府裁定で弟重信に宗家、三男直房に分割、立藩。信房の時城主格に。
七戸(盛岡新田) 青森県上北郡七戸町 南部信方(のぶかた) 外様 1 城主格 南部政信分知され、5代信隣の時分与うけ立藩。北方警備の功で城主格に、築城できず陣屋営築。奥羽越同盟参加
弘前(津軽) 青森県弘前市下白銀町 津軽承昭(つぐあきら) 外様 10 城主 津軽為信 、南部氏から独立。二代信枚、三代信義の時お家騒動もおきたが藩主の独裁体制確立。治水、金山経営に成果を挙げた。次の信政は倹約・国産の奨励新田開発等財政改革を積極的推進。しかしその後の飢饉、大凶作で財政は窮乏の一途をたどった。この間藩士の帰農土着奨励も行ったが失敗。最後の承昭は幕末の動乱の中、慎重に対応、一旦は奥羽列同盟へと固まりかけたが、京の情勢を判断し勤王恭順とし函館戦争に新政府軍として参戦。
黒石 青森県黒石市内町 津軽承叙(つぐみち) 外様 1 陣屋 弘前藩主津軽信政の叔父信英が分知され旗本となり江戸書院番に。八代親足の時宗家より蔵米分与され立藩。
斗南 青森県むつ市大字新町 松平容大(かたはる) 家門 3 城主 会津藩、戊辰戦争で敗戦。会津領を収公されるも容保の子、容大家名相続許され立藩。藩士厳しい気候に開墾失敗
陸中 一関 岩手県一関市城内 田村崇顕(たかあき) 外様 2.7 城主 伊達政宗の末子宗勝分与受け立藩したが伊達騒動を引起こし廃藩。後田村建顕が入封立藩。赤穂浅野内匠頭預る
盛岡(南部) 岩手県盛岡市内丸 南部利恭(としゆき) 外様 13 城主 南部氏は源頼朝に従い、奥州討伐で軍功、三戸に土着。信直は秀吉の下、勢力拡大、関ヶ原で家康方参陣本領安堵。重直の時盛岡城完成、重直は気性激しい専制君主で多くの人材を失った。更に嗣子なく御家断絶の所名門の家柄から幕府裁定で八戸藩を分割の上重信が相続。重信は総検地実施、北上川堀割船入場修築や特産の産馬産金で藩体制を確立。しかし度重なる凶作と蝦夷地警備出兵等で財政は窮乏、人員整理、節倹財政等実施したが財政難は慢性化した。戊辰時奥羽越同盟に加盟敗戦。領地減封のうえ白石に転封になるも70万両献金を条件に帰封。
水沢 岩手県水沢市大手町 外様 陣屋 伊達綱村、弟村和(留守宗景の養子)に分知立藩したが旗本村岡孝常との諍いで家臣狼藉。綱村、所領没収し廃藩
陸前 仙台 宮城県仙台市青葉区青葉山 伊達宗基(むねもと) 外様 28 城主 伊達氏は源頼朝に従い、奥羽州討伐で軍功、伊達郡に住す。政宗は関ヶ原後仙台に築城、家臣の地方知行制を確立。政宗は窮乏する財政を産金と海外貿易に求めたが交渉は失敗した。綱宗は酒絡みの不謹慎理由で21才で閉塞、後継問題から”伊達騒動”が勃発し藩存亡の危機を招いた。次の綱村は新田開発、運河開削、製塩業の保護、産馬の奨励等に注力し産業振興に努めた。次の吉村も寛永通宝の鋳銭事業で挙げた利潤を買米仕法でさらに増大、財政再建を果たしたがその後の大飢饉等で再度借金財政に陥った。戊辰時慶邦は会津降伏容認を嘆願したが受入れられず新政府軍迎撃を決定、奥羽越同盟が成立し盟主となる。しかし各地で敗戦、米沢藩の降伏で恭順、減封さる
岩沼 宮城県岩沼市館下 外様 陣屋 田村氏は坂上田村麻呂の後裔。跡継ぎなく伊達宗良が養子。宗良は宗家綱村の後見。子建顕が一ノ関に移り廃藩
羽前 米沢 山形県米沢市丸ノ内 上杉茂憲(もちのり) 外様 14 城主 長井氏、伊達氏、蒲生、上杉氏が入封。関が原、後継問題で大幅減封となったが家臣は変わらず財政困窮の因となる。綱憲は吉良家からの養子で吉良家への援助や赤穂浪士の討ち入りで打撃。更に大凶作、東叡山中堂修理等で困窮を極めた。しかし鷹山の時自ら質素倹約を実行、農村復興、産業の開発、藩校の創設等改革断行、隠退後も治広と共に五子褒賞による人口増加、養蚕業の奨励、織物の技術指導や役人、役所の取り壊し等で実績を挙げその後の藩政にも影響を与えた。幕末斉憲は大砲の鋳造や洋式小銃の採用等軍制の改革に努め、又攘夷親征の猶予を奉請。戊辰時仙台藩らと会津藩赦免を嘆願したが却下。奥羽越同盟を結成したが逸早く新政府軍に降り参陣す。
米沢新田 山形県米沢市丸ノ内 上杉勝道(かつみち) 外様 1 陣屋 米沢藩五代藩主上杉吉憲、弟勝周に分知、立藩。形式的なもので米沢城二の丸に居住。宗家から養子
天童 山形市天童市田鶴町 織田信敏(のぶとし) 外様 1.8 陣屋 織田信雄の嫡流。信浮の時上野小幡藩から高畠に移封立藩。その後天童に移し所領も天童に集中。財政再建の為紅花、家臣の内職将棋の駒の生産奨励。戊辰時庄内藩と戦ったが後奥羽越同盟に加盟し新政府軍と戦い降伏。
高畠 山形県置賜郡高畠町 外様 陣屋 織田信浮の時陣屋を高畠城に置き立藩。所領を村山郡内にまとめ藩の中枢を天童へ。高畠には代官所
大泉(庄内) 山形市鶴岡市馬場町 酒井忠宝(ただみち) 譜代 12 城主 最上氏改易で徳川四天王酒井忠勝が入封。藩財政は当初より窮乏、倹約令、新田開発革実行したが解決できず忠徳の時豪商本間光丘を登用、再建を委ねる一方農政の大改革や藩校を創設し士風を刷新。次の忠器の時も蝦夷地警備で財政圧迫、本間家からの援助で飢饉も凌いだ。天保に庄内、長岡、川越藩の三方所替えが命じられたが領民の阻止運動で撤回させたが、代わりに印旛沼疎水工事普請が課され莫大な費用が吸い取られた。戊辰時、三田薩摩屋敷焼き討ちの罪を問われ会津藩とともに新政府軍の矢面になり同盟軍の一員として戦ったが降伏。大泉藩に改称
新庄 山形県新庄市堀端町 戸沢正実(まさざね) 譜代 6.8 城主 戸沢政盛、常陸松岡から移封立藩。真室城から新庄城に。二代正誠がお家騒動を乗切り藩政を確立。外様だが譜代の格式。戊辰時新政府側につき庄内藩を攻撃したが逆に猛攻うけ城下は焦土と化し落城。
上山 山形県上山市元城町 松平信安(のぶやす) 譜代 2.7 城主 松平重忠、遠江横須賀から入封立藩。その後藩主転々、備中庭瀬の松平氏が入封定着。奥羽越同軍に参加降伏。
山形 山形県山形市霞城町 外様 城主 最上義光は関ヶ原の役で上杉氏を牽制、加増受け山形庄内を領有。しかし死後家督相続争いが勃発し幕府が調停するも和解を拒否した為近江大森に減封。その後譜代の鳥居、保科、越前松平、奥平、堀田、越前松平、奥平松平氏と幕閣首脳にいた譜代大名の左遷地となり次第に所領は縮小。次に堀田、大給松平、幕領、秋元氏が続き幕末水野忠精が入封した。最後の忠弘は奥羽越同盟に加盟、新政府軍に抵抗したが敗戦、近江朝日山へ移封廃藩。
大山 山形県鶴岡市大山 譜代 陣屋 庄内藩酒井忠勝没後忠当相続に当たり抗争発生。不満派懐柔の為七男忠解に分知立藩したが後継ぎなく廃藩。
長瀞 山形県東根市長瀞字楯の内 譜代 陣屋 久喜藩主米津政敏、移封立藩。庄内藩酒井家から養子が続いた縁で奥羽越同盟に参加、陣屋陥落。後大網に転封
左沢 山形県西村山郡大江町 譜代 陣屋 酒井忠勝の弟直次、分知立藩したが嗣子なく廃藩。忠勝三男忠恒の立藩時左沢の地を分与した為松山藩領になる。
村山 山形県村山市 譜代 陣屋 横須賀藩主本多利長、藩政不行届きで領地没収、配流立藩。養嗣子の利久の時糸魚川へ移封、廃藩
羽後 本荘 秋田県本荘市出戸町 六郷政鑑(まさあきら) 外様 2 城主 最上義光、関が原後出羽を支配したが義俊の時国政不取締で改易。ご諸大名が分立、六郷政乗が本荘に移封立藩。
その後豪商本間家からの借入れで財政は逼迫。戊辰時新政府側につき庄内藩の攻撃で落城、久保田藩に逃れる。
矢島 秋田県由利郡矢島町 生駒親敬(ちかゆき) 外様 1.5 陣屋 高松藩生駒高俊が騒動の責めを受け矢島に配流立藩。分知し藩消滅、維新に親敬、加増再立藩。戊辰時陥落したが
秋田(久保田) 秋田県秋田市千秋公園 佐竹義堯(よしたか) 外様 20.5 城主 水戸の領主佐竹義宣 、関ヶ原で中立対応を責められ所領没収。秋田へ移封、土崎湊に入城立藩。久保城を築城、城下町の整備、検地、知行割を実施し藩体制を確立。他方銀・金鉱山の開発、山林を財政基盤とした。その後鉱山の衰退で財政は窮乏、銀札を発行したが経済的混乱を招いた。更に大飢饉により窮乏はその極に達したが義和の時農業の振興、鉱山の奨励、養蚕・製紙等殖産興業策を実施、又人材登用で藩政の刷新を図った。幕末、勤王派が台頭、奥羽越同盟に加盟せず久保田にいた仙台藩の使者を殺害、仙台、盛岡藩の攻撃を受けたが新政府軍の援軍を得た。
岩崎 秋田県湯沢市岩崎町 佐竹義理(よしただ) 外様 2 陣屋 久保田三代藩主佐竹義処、弟義長に新田分与立藩。義ェ、椿台陣屋で戊辰戦争を戦い抜く。子義理が岩崎に陣屋。
松嶺(松山) 山形県鮑海郡松山市 酒井忠匡(ただまさ) 譜代 2.2 城主 庄内藩主酒井忠勝の三男忠恒 に分知立藩。忠休の時加増城主格に。奥羽越同盟に参加、本藩とともに各地を転戦
亀田 秋田県岩城町 岩城隆彰(たかあき) 外様 1.8 城主格 最上氏後、佐竹氏の一族岩城吉隆が川中島から入封立藩。戊辰戦争で同盟軍に転んじ本藩から攻撃受く。廃藩
角館 秋田県仙北郡角館町 外様 城主 戸沢政盛は関ヶ原の軍功で本領安堵。転封後佐竹氏領となったが伊達政宗に追われ身を寄せていた芦名盛重が城主となって居城したが一国一城令で破却。佐竹北家の義隣の預り。義明の正室は三条西実名の娘、京風文化を。
六郷 秋田県仙北郡六郷町 外様 城主 関ヶ原の役で主家小野寺氏と戦い、軍功で六郷政乗立藩。常陸府中へ移封廃藩。領地は久保田藩に。
横手 秋田県横手市城山町 外様 城主 横手城主小野寺義道、関ヶ原の役で徳川氏に敵対し配流、廃藩。佐竹氏の所領になり城代が在城。
仁賀保 秋田県由利郡仁賀保町 外様 陣屋 関ヶ原の軍功で仁賀保挙誠所領安堵。常陸武田を経て加増受け旧領に立藩。後年所領を三分割、旗本に。
秋田新田 秋田県秋田市千秋公園 外様 陣屋 久保田藩二代藩主義隆の孫義都、分知受け立藩。蔵米支給、家臣も本藩付け人。次の義堅が本藩の養子に。廃藩。
岩代 二本松 福島県二本松市郭内 丹羽長裕(ながひろ) 外様 5 城主 松下重綱が入封立藩が後宗家加藤明成の出奔改易で当家も除封。関ヶ原で改易後家名再興を許されていた丹羽氏が入封、将軍家への忠誠強め明治まで在藩。丹羽氏は城下町、支配機構の整備や阿武隈川の治水、溜池築造し積極的に新田開発を実施。しかし度重なる凶作で農村は疲弊、紙、馬等特産物生産を奨励したが財政は窮乏した。幕末長国は祖法とうりに幕命に従い京都警衛、天狗党討伐等遂行、戊辰時奥羽越同盟に加盟し須賀川はじめ各地を転戦。留守を守った少年兵の痛ましい戦いがあった。長国は米沢に逃れ落城、謹慎。上杉茂憲の弟頼丸養子相続
会津 福島県会津若松市追手町 譜代 城主 蘆名、伊達、蒲生、上杉、加藤氏を経て家光の弟、保科正之が入封、家臣の俸禄制への移行、市場の再興等決定し藩政確立。家光死後家綱の補佐役になる。正容の時徳川一門に列す。その後農村の荒廃や凶作、蝦夷地警備等で財政の困窮は続いたが容敬は産業の振興、市場の統制、人材登用等を積極的に実施し大飢饉も乗り切った。幕末容保は将軍の信任厚く攘夷騒動で加熱する京都守護職に就任、孝明天皇からの信任も得たがついに朝敵とされ鳥羽伏見に敗北、戊辰時も新政府軍の標的とされ激しい戦闘の上降伏した。嫡男容大に家名相続が許され斗南に。
福島 福島県福島市杉妻町 譜代 城主 上杉領、幕領後本多忠国が入封立藩したが3年で転封、再度幕僚後堀田正仲入封するも転封、三度幕僚後板倉重寛入封し定着す。板倉氏は築城と城下町の整備、阿武隈側の水運による米、養蚕、紅花等の取引きで宿場町としても繁栄した。他方商品の生産流通は貧富の差や諸物価の高騰を招き一揆が頻発した。幕末戊辰時西軍参謀世良修蔵が城下で暗殺、奥羽越同盟に加盟し新政府軍と白河方面で戦い降伏、会津大沼に移封後三河に転封され廃藩。
桑折 福島県伊達郡桑折町 譜代 陣屋 白河新田藩の松平忠尚移封され立藩。忠恒の時領内半田に国内有数の銀山が発見、転封。幕府直轄地代官支配。
梁川 福島県伊達郡梁川町 外様 陣屋 尾張徳川光友の三男松平義昌が立藩。無嗣絶家、松平通春継ぐも後宗家へ。幕領、松前藩領、幕領後館藩の飛地
岩瀬(大久保) 福島県岩瀬郡岩瀬村 譜代 陣屋 明石藩主本多政利、不行跡・藩政不行届き等で移封立藩。その後も所行改めず改易、廃藩 。白河藩の兼領。
下手渡 福島県伊達郡月館町 外様 陣屋 三池藩主高橋種周情報漏洩で蟄居、子種善転封立藩。戊辰時本藩柳川藩に従い勤王方に転じ、陣屋焼失、旧領へ
下村 福島県福島市杉妻町 譜代 陣屋 田沼意次の孫意明、親、意知の不祥事等で相良藩から転封立藩。意正の時旧領相良に移封廃藩。
磐城 三春 福島県田村郡三春町 秋田映季(あきすえ) 譜代 5 城主 加藤嘉明の三男明利が立藩。その後秋田俊季が入封。戊辰時奥羽越同盟に加盟するも新政府軍に逸早く恭順出兵
棚倉 福島県東白川郡棚倉町 阿部正功(まさこと) 譜代 6 城主 立花宗茂、関ヶ原の敗戦で柳河から移封。転封後丹羽、内藤、太田、越知松平、小笠原、井上、松井松平氏と頻繁に藩主が交代、幕末阿部正静が入封。奥羽越同盟に加盟、白河口で新政府軍と交戦、棚倉城も攻撃受け落城謹慎。
中村(相馬) 福島県相馬市中村北町 相馬誠胤(ともたね) 譜代 6 城主 平将門の末裔。相馬利胤、秀吉から陸奥三郡安堵。関ヶ原に参陣せず改易。政宗の仲介で再興、中村に築城。その後再三の検地や給人制度化、農業振興策により藩政は確立し尊胤の時譜代格式に。しかし日光山の修復等の公役負担、凶作による飢饉から財政は窮乏。その為藩政の縮小化や宝物の売却、開墾地の貢租免除、二宮仕法による農村復興策等改革を断行。幕末、当初は仙台藩の圧力で奥羽越同盟に加盟したが戊辰時新政府軍に帰順、出兵す。
磐城平 福島県いわき市平字旧城跡 安藤信勇(のぶたけ) 譜代 3 城主 岩城氏改易後、鳥居忠政立藩。転封後内藤政長が入封、検地、小川江用水の開削、植林に注力し財政は健全であったが次第に日光祭礼奉行等再三の公役で悪化し大一揆の責で転封、井上正経、そして安藤信成が入封した。安藤氏は早くから幕政に深く関わり信正は井伊直弼殺害後老中筆頭として諸外国との交渉や和宮降家等公武合体策の推進者として活躍。坂下門外で襲撃され負傷罷免。戊辰時奥羽越同盟に加盟、新政府軍の攻撃を受け落城降伏。
湯長谷 福島県いわき市常盤 内藤政憲(まさのり) 譜代 1.4 陣屋 平藩主内藤忠興の三男遠山政亮に新田分与し立藩。政敏の時白水村から石炭産出。幕末奥羽越同盟に参加、減封
福島県いわき市泉町4丁目 本多忠伸(ただのぶ) 譜代 1.8 城主格 内藤政長の平藩移封で、嫡男忠興が加増立藩。後板倉、本多氏が入封、戊辰時奥羽越同盟に加盟、攻撃受け落城
白石 宮城県白石市益岡町 外様 城主 関ヶ原後政宗の重臣片倉小十郎が拝領。白石城は戊辰時の奥羽越同盟公議所、戦後の両羽三陸磐城按察使設置等重要な役割を果たした。戊辰後盛岡藩は朝敵の責任から領地収公、白石に移封されたが70万両献金で盛岡復帰
白河 福島県白河市字郭内 譜代 城主 会津藩主蒲生秀行無嗣断絶後丹羽長重が立藩、白河城を築城。以降は奥羽の押えとして譜代大名が入封。榊原、本多、奥平松平、越前松平と続き一貫して厳しい年貢取りたて、過重な役務負担から農村は荒廃し一揆の発生をみた。次の久松松平氏は定信が質素倹約、農民には稲作専心、貯穀自給を奨励し大飢饉を乗りきった手腕から老中として寛政の改革を断行した。次の阿部氏は正外が老中として活躍したが兵庫開港の勅許を仰いだことから天皇の逆鱗にふれ蟄居。転封後丹羽氏の預かりに。再度阿部氏の移封が発せられたが戊辰戦争で沙汰やみ。城は廃虚。
白河新田 福島県白河市字郭内 譜代 陣屋 唐津藩主松平乗久の嫡子忠尚、白河藩の養子の予定が変更、新田分与立藩。宗家移封に伴い桑折に移され桑折藩立藩。越前松平知清が兄の白河藩主基知から分与再立藩。次ぎの義知は基知の養子になり廃藩。
守山 福島県郡山市田村町 家門 陣屋 水戸初代頼房の四男頼元の子、頼貞が立藩。戊辰時奥羽越同盟加盟。明治に陣屋を当初地、常陸松川へ移転廃藩
浅川 福島県石川郡浅川町 譜代 陣屋 白河藩主本多忠平が弟忠以に分与立藩。忠晴の時三河伊保へ移封廃藩。幕府直轄領として代官所支配。
石川 福島県石川郡石川町 譜代 陣屋 石川氏領地没収。白河藩主本多忠平が弟忠利に分与立藩。忠利は寺社奉行等幕政に関与、三河挙母へ移封廃藩。
菊多(窪田) 福島県いわき市山田町 外様 陣屋 加賀野々市藩主土方雄重が加増受け立藩。雄隆の代に家督後継者争いを咎められ除封 廃藩。村上藩榊原家預り
常陸 牛久 茨城県牛久市城中 山口弘達(ひろよし) 譜代 1 陣屋 大内義弘の子孫山口重政、関ヶ原の軍功で立藩したが大久保長安の不正連座で領地収公。大阪の陣で軍功たて再度立藩。領地を常陸、下総に集め陣屋を牛久に。水戸街道の宿場町で村々の助郷負担増加から牛久助郷一揆起る。
竜ヶ崎 茨城県竜ヶ崎市古城下 米津政敏(まさとし) 譜代 1.1 陣屋 仙台藩の飛地。出羽長瀞藩米津政敏、戊辰戦争で陣屋焼失。藩領が上・下総・出羽に分散、集約願い出て入封。
下館 茨城県下館市仲舘 石川総管(ふさかね) 譜代 2 城主 水谷勝俊、関が原の軍功で本領安堵。後松平頼重、増山、井上、黒田氏入転封後石川総茂が入封、石門心学を学び家臣にも習得させた。総貨は尊徳仕法を導入、財政再建に尽力。木綿の生産にも注力。戊辰時旧幕軍に占拠さる。
下妻 茨城県下妻市本城町 井上正巳(まさみ) 譜代 1 城主 家康の十一男頼房、松平忠昌、久松松平後幕領が続いた後井上正長が将軍家宣の遺命で加増立藩、明治まで在藩した。しかし農民の一揆が頻発し藩政は苦しめられた。幕末、天狗党の追討軍の本営が下妻に置かれた為天狗党の襲撃で焼失した。戊辰時旧幕軍に援兵を送った為存亡の危機に陥ったが井上宗家を頼って難を逃れた。
麻生 茨城県行方郡麻生町麻生 新庄直敬(なおのり) 外様 1 城主 新庄直頼、関ヶ原の責めで会津に流罪。後許され立藩。嗣子続かず本家は没収されたが分家直時が加増受け別家を興し存続。直規の時天明の大飢饉後の農村の建て直しに尽力し目安箱の設置や人口増加を図る為、妊婦の届出と出生養育米を制度化した。幕末、藩主が夭折し本家の系統は断絶。支族の新庄直孝の子直敬が相続し明治に至る
土浦 茨城県土浦市中央一丁目 土屋挙直(しげなお) 譜代 9.5 城主 関が原後藤井松平信一が入封、城下町を整備す。転封後西尾、朽木、土屋、大河内松平氏入転封後再度老中に昇進した土屋政直が入封した。土屋氏は醤油の醸造を奨励、交通路の改良し霞ヶ浦の水路両面を発展させた。寛直の急死で後継争いが起き、水戸家より婿養子彦直を迎え難を逃れたが旱魃、冷害、大洪水等続き領民は飢え苦しんだ。次の寅直は従兄弟関係の水戸家の影響を受け天狗党の乱や大政奉還の時果敢な対応が取れなかった。
水戸 茨城県水戸市三の丸 徳川昭武(あきたけ) 御三家 35 城主 佐竹義宣、関が原の責めで所領没収、秋田へ。家康の五男武田信吉、十男頼将、十一男頼房が入封、水戸家は御三家の中で所領が少ないが副将軍的立場。次の光圀は大日本史の編纂に着手し、又歴史の流れに大義を求める水戸学を作り上げた。他方財政困窮が顕著になり年貢の増徴、紙の専売強化、運河の開削等改革を実行したが解決出来なかった。斉昭は藤田東湖などの軽輩武士を登用し質素倹約の励行、軍制の改革と武備の充実、弘道館の創設、国産掛を新設して殖産興業策等を断行した。そして水戸学による尊神排仏の精神が尊王攘夷論を発展させて松陰ら幕末の思想家を先導した。この為斉昭は幕府に嫌われ謹慎、ペリー来航後復権するも将軍後継問題等で井伊直弼と対立再度謹慎。藩内の尊攘派と門閥派の確執が激化し尊攘派への弾圧は桜田門、坂下門外の変の激発を招いた。更に天狗党の乱で大量の斬罪者を生み藩内抗争の混乱の中、薩長が主導する新政府から取り残された。
手綱(松岡) 茨城県高萩市下手綱町 中山信徴(のぶあき) 譜代 2.5 城主 出羽角館の藩主戸沢政盛、移封立藩後新庄へ。水戸藩領となり付家老中山信敏分与受け太田に居所を。その後加増受け信徴の時立藩。更に松岡に陣屋を移し大名となったが政府から水戸藩の取締りを命じられ再度付家老職に。
太田 茨城県常陸太田市中城町 譜代 城主 水戸藩付家老中山信敏、太田に分与さる。その後加増受け明治元年に立藩、後松岡に陣屋を移す。水戸藩別邸置く
志筑 茨城県新治郡千代田村中志筑 本堂親久(ちかひさ) 外様 1 陣屋 源頼朝の後裔、本堂茂親が佐竹氏移封により出羽国本堂から転封。参勤交代する旗本。明治元年加増立藩。
笠間 茨城県笠間市佐白山 牧野貞邦(さだくに) 譜代 8 城主 蒲生秀行の後、騎西から松井松平康重が入封。一時外様の浅野家(赤穂浪士事件)が在封したが基本的に戸田松平、永井、井上、本庄、井上氏と譜代大名が続いた後牧野氏が入封し明治まで在藩。牧野氏は綱吉の側用人、成貞を家祖とする新規取立て大名で京都所司代を務めた。次の貞長も老中を歴任したが財政の窮乏は著しく、次の貞春は入百姓や笠間焼の奨励、藩校の創設を実施した。幕末、貞直は最後の大阪城代として苦難の職責を負った。
石岡 茨城県石岡市総社 松平頼策(よりふみ) 家門 2 陣屋 関が原後六郷、皆川氏支配後水戸藩主頼房の五男頼隆が立藩。讃岐高松、陸奥守山、常陸宍戸と水戸徳川家四分家の一つ。御連枝と呼ばれる。藩政の実権は宗家から派遣の重臣に。城下の各所が天狗党と焼き討ちに遭う。
宍戸 茨城県西茨城郡友部町 松平頼位(よりたか) 家門 1 陣屋 秋田氏転封後水戸藩主頼房の七男頼雄に分与立藩。幕末、頼徳の時武田耕雲斎一件に連座除封、父頼位に給封。
松川 茨城県東茨城郡茨城町 松平頼之(よりゆき) 家門 2 陣屋 守山藩は領地が常陸に分散、又家臣の多くが水戸家の出身。頼升、奥羽越同盟に参加降伏。住居不適で松川へ。
額田 茨城県那珂郡那珂町 家門 陣屋 光圀、将軍家綱の命により弟頼元に分与立藩。後陸奥守山他に二万石を与えれれ守山藩立藩、分与分を返還廃藩。
真壁 茨城県真壁郡真壁町 譜代 陣屋 浅野長政、関が原の軍功で隠居料として領有。三男長重後継立藩。後笠間を与えられ真壁を吸収、笠間藩領となる。
高森 茨城県真壁郡大和村 譜代 陣屋 内藤正勝、武蔵赤沼に立藩。嫡男正友相続後常陸等五ヶ国へ移封、高森に立藩。後、信濃岩村田へ転封、廃藩。
北条 茨城県つくば市筑波 譜代 陣屋 佐久間盛政の弟佐久間勝之、秀吉、家康に仕え大阪の陣等の軍功で加増、立藩したが。信濃長沼に移封、廃藩。
片野 茨城県新治郡八郷町 外様 陣屋 滝川勝利、関ヶ原の役で西軍に組し所領没収。後徳川氏の御咄衆に列し立藩。正利跡継ぎなく領地返上、旗本へ。
小張 茨城県筑波郡伊奈町 譜代 陣屋 駿河久能より松下重綱入封立藩、大阪の陣の軍功で加増烏山へ。館林藩主の弟石川乗政斎入封、後小諸へ、廃藩
谷田部 茨城県つくば市谷田部 外様 陣屋 茂木藩主の細川興元、大阪の陣の軍功で加増され谷田部に立藩。幕末興貫、早々に新政府側に。藩庁茂木へ。
江戸崎 茨城県稲敷郡江戸崎町荒宿 外様 陣屋 佐竹氏出羽久保田への転封後徳川家の直轄地。古渡藩主丹羽長重、加増により立藩したが後棚倉へ移封廃藩。
古渡 茨城県稲敷郡桜川村 譜代 陣屋 丹羽長秀の嫡男長重、加賀小松を領するも。関ヶ原の責めで没収。後許され立藩。後加増され江戸崎に転封廃藩。
下野 吹上 栃木県栃木市吹上町 有馬氏弘(うじひろ) 譜代 1 陣屋 紀伊徳川頼宣の家人、有馬氏倫、吉宗の側衆として累進。氏恕の時五井に立藩。その後領地がえで吹上に移築。
黒羽 栃木県那須郡黒羽町前田 大関増勤(ますのり) 外様 1.8 城主 大関晴増、関ヶ原の役で上杉の押えを果たし加増立藩。五人の重臣、公知衆の存在強くその後の藩主の交替にも影響を与え、特に幕末、増裕が陸海軍奉行・若年寄を歴任する英俊であったが家臣の強要で要職を辞任させられた。戊辰時勤王方として会津攻撃の拠点となる。太田原氏同様、中世以来の地に土着した近世大名で一氏支配を続けた。
烏山 栃木県那須郡烏山町中央 大久保忠順(ただとし) 譜代 3 城主 成田氏除封後松下重綱が入封。後堀、板倉、那須、永井、稲垣氏とめまぐるしく藩主が交替。大久保常春が入封定着した。忠保の時二宮尊徳仕法による財政再建策が講じられ、戊辰時新政府側として占拠された宇都宮城攻撃に出兵
大田原 栃木県大田原市城山 太田原勝清(かつきよ) 外様 1.1 城主 那須七党の一つ大田原晴清は関ヶ原で上杉の押えを果たし加増立藩。戊辰時勤王方に属し会津藩の攻撃をうける。
喜連川 栃木県塩谷郡喜連川町 足利聡氏(としうじ) 外様 10格 陣屋 古河公方足利国友、当地に居住し喜連川氏を称す。知行は万石以下だが十万石の格式。幕末足利氏に復す
宇都宮 栃木県宇都宮市本丸町 戸田忠友(ただとも) 譜代 5 城主 関が原後奥平家昌が入封、その後奥羽の押えとして有力譜代大名が就封。又将軍の日光社参の際の宿泊地となった。次に本多正純が入封し検地、居城の改修、日光道中と奥州道中の付替え等積極的な経営を行ったが敏腕が仇となり配流に(宇都宮釣り天井)。その後奥平、奥平松平、本多、三度目の奥平、阿部、戸田、深津松平の後戸田忠寛が入封し明治まで在封。戸田氏は幕府の要職を歴任した。又天皇陵修復事業を建白、山陵奉行として修理を行った。戊辰時勤王方に藩論を統一、官軍を受け入れた為大鳥圭介ら旧幕軍の猛攻をうけ占拠されたが官軍増援で奪還
足利 栃木県足利市雪輪町 戸田忠行(ただゆき) 譜代 1.1 陣屋 足利氏、小田原の陣で滅亡。天領後本庄宗資が加増立藩。再度天領後、側衆戸田忠時が加増受け宇都宮戸田家から分れ立藩。忠時は甲府宰相綱豊(後の将軍家宣)の付家老として従い、西ノ丸に入った時に側衆を勤めた。
壬生 栃木県下都賀郡壬生町本丸 鳥居忠文(ただふみ) 譜代 3 城主 小田原の役で壬生氏滅亡、結城直朝をへて日根野吉明が高島から入封立藩。その後家光六人衆の阿部、三浦氏が続き大河内松平、加藤氏の入転封後関が原で伏見城に立て篭もった島居元忠の子孫忠英が入封明治まで在封す。
茂木 栃木県芳賀郡茂木町 細川興貫(おきつら) 外様 1.6 陣屋 細川幽斎の次男興元、秀忠に仕え茂木に立藩。大阪の役の軍功で加増、陣屋を谷田部へ。明治四年再度茂木へ
佐野 栃木県佐野市若松町 堀田正頌(まさつぐ) 譜代 1.6 城主格 佐野房綱、春日岡に立藩。信吉兄の争いに連座没収。堀田正高分与立藩。転封廃藩後、堅田から堀田正敦入封
那須 栃木県大田原市福原 外様 陣屋 烏山の那須資晴、小田原参陣を拒み所領分割。関ヶ原の役で加増され子資景佐良土に立藩。嗣子なく一時廃藩、増山資弥を養子に迎え再び立藩。その後加増され烏山へ移封廃藩。
真岡 栃木県真岡市台町 外様 陣屋 浅野長政の三男長重立藩後加増うけ真壁へ。その後常陸柿岡に蟄居していた稲葉正成入封。正勝の時小田原へ
高徳 栃木県塩谷郡藤原町高徳 譜代 陣屋 幕末、歴代天皇稜の修復を建議し窮地を脱した宇都宮藩山稜奉行家老戸田忠至、分知立藩。子忠綱、曽我野へ
板橋 栃木県今市市板橋 譜代 陣屋 松平一生、伏見城戦で戦死した父の遺領を継いた後板橋に移封後加増立藩。子成重、大阪の役で軍功、西尾へ
鹿沼 栃木県鹿沼市 譜代 陣屋 阿部正次、大多喜移封後幕領。阿部再入藩後朽木氏、内田正信入封。家光没した時殉死。子正親の時小見川へ
西方 栃木県上都賀郡西方町 外様 陣屋 家康、直江兼続と対立した上杉元家臣藤田重信に西方を与え立藩。大阪の陣での戦闘失敗を咎められ除封廃藩。
上田 栃木県下都賀郡壬生町 譜代 陣屋 安房東条藩主西郷寿員、移封立藩。しかし1694年寿員が勤務不良につき五千石に減封、旗本に落とされて廃藩
大宮 栃木県栃木市大宮町 譜代 陣屋 古河藩主堀田正俊、殿中で稲葉正休に刺殺さる。正俊の子正虎が遺領の一部で分与立藩。後福島藩を継ぎ廃藩
皆川 栃木県栃木市皆川譲内町 譜代 城主 長沼広照、小田原の陣で北条方であったが家康に臣従し立藩したが忠輝傳役の責めで所領没収(秀忠の時府中で再興)。能見松平重則が入封したが嗣子なく除封廃藩。米倉昌尹入封再立藩、忠仰の時六浦に陣屋移転し廃藩。
小山 栃木県小山市城山町一丁目 譜代 城主 結城泰朝、小山家を継いで再興するも小田原の陣で滅亡。本多正純、関が原の役の軍功で立藩、後宇都宮へ転封。
富田 栃木県下都賀郡大平町 譜代 陣屋 北条氏の一族北条氏勝、陣後家康に仕え下総岩富に立藩。嗣子氏重は小田原城番を務め富田に転封。後久野へ
榎本 栃木県下都賀郡大平町 譜代 陣屋 本多正信の三男忠純立藩。大阪の陣の軍功で皆川領内から加増受るも、その後嗣子が続かず領地没収、廃藩。
山川 栃木県足利市山川 譜代 城主 結城秀康に仕えた山川朝信後、六人衆の一人太田資宗が加増立藩。3年後更に加増受け西尾に転封廃藩。
上野 高崎 群馬県高崎市高崎町 大河内輝声(てるな) 譜代 8.2 城主 井伊直政が入封立藩。その後酒井、松平、安藤等譜代藩として歴代幕府の養殖を歴任。安藤重信、重長は秀忠、家光に使え、徳川忠長の幽閉預り等厚い信任を得、次の重博も改易大名の収城使を勤めた。高崎城がこの時期に完成。次の松平輝貞は柳沢吉保と綱吉の側近として幕政に携わったが綱吉没後失脚、転封したが吉宗の時再入封し老中格として享保の改革の推進に参画した。次の輝高も老中として田沼意次の片腕となり出世したが他方、助郷重課や絹の運上金の徴収に対する大一揆、打ち壊しの発生等意次政治への反発を受けた。最後の藩主輝声は陸軍奉行並になり関東譜代の重鎮として幕府を支えたが戊辰時維新政府に恭順、小栗上野・長岡・会津討伐線にも出兵
館林 群馬県館林市城町 秋元礼朝(ひろとも) 譜代 6 城主 榊原康政入城立藩。城郭の拡張、城下町の整備、利根・渡良瀬川の築堤等実施し基礎を築く。その後幕府領、松平氏を経て家光の子綱吉が入封したが将軍に就任、子徳松が夭逝した為城は破却、廃藩。しかし将軍家宣の弟松平清武が入封し再築城。転封後太田氏を挟んで松平武元再入封し九、十代将軍に老中として重職を果たす。又将軍家斉の子を養子に迎え関係を深めた。井上氏の藩政後幕末秋元志朝が入封したが毛利家と兄弟の関係から尊王の志厚く、長幕間の確執を憂い斡旋に奔走。鳥羽伏見後新政府軍として彰義隊の平定、結城等転戦し軍功を挙げた。
伊勢崎 群馬県伊勢崎市 酒井忠彰(ただあきら) 譜代 2 陣屋 稲垣長茂立藩。転封後酒井忠世の前橋藩領に。その後酒井忠寛分与受け立藩。利根川治水、伊勢崎銘仙事業等努力。忠温は水路の開削で広瀬・桃井堤を完成し灌漑に成功。戊辰時新政府の命に従い会津藩の攻撃に備え出兵
安中 群馬県安中市 板倉勝殷(かつまさ) 譜代 3 陣屋 彦根藩主井伊直孝、兄直勝に安中領を分与立藩。碓井、西牧、大戸等の関所を固めると共に居城の修築、城下町を整備す。その後幕閣の小藩譜代の除封・移封後板倉氏が再入封。浅間山の大墳火で人口の減少を招いたが藩校創設、マラソン実施し文武の振興を図る。又上野諸藩に先駆け種痘を実施。幕末会津討伐へ出兵等新政府に恭順。
吉井(矢田) 群馬県吉井町 松平信謹(のぶのり) 家門 1 陣屋 菅沼定利立藩。転封後天領等に。堀田氏そして天領後家門松平(鷹司)信清が再立藩。関白鷹司信房の娘が家光の正室になった縁で従兄弟信平が旗本に。その子が信清。最後の信謹は上野諸藩に先駆けて版籍奉還した。
前橋(厩橋) 群馬県前橋市大手町 松平直方(なおかた) 家門 17 城主 北関東の要地として平沼、酒井、松平の有力大名が在藩。特に酒井氏は譜代筆頭格として幕府要職に。中でも忠清は大老として仙台・越後騒動を処断、敗れたが四代将軍後継問題へ関与し下馬将軍と呼ばれるなど権勢を誇った。各氏とも自然災害に苦労。松平氏は財政逼迫のうえ、前橋城の崩壊から居城を川越に移す。その後農業改革、生糸を中心に産業殖産をすすめ財政再建を図り、前橋への帰城も実現。幕末、慶喜の免罪等朝幕間の調停に努力
七日市 群馬県富岡市七日市 前田利昭(としあき) 外様 1 陣屋 前田利家の五男利孝大坂の陣の軍功で立藩。館林城、古河城の守衛す。藩校成器館を創設。水戸天狗党と戦う
沼田 群馬県沼田市倉内 土岐頼知(よりおき) 譜代 3.5 城主 真田信之立藩。その後農村復興に努めるなど領国経営を積極的に進めたが両国橋の架け替え不手際で改易。幕領後本多正永が入封、後老中輩出の譜代藩に。黒田氏入封後土岐氏が入封し明治まで在藩。歴代藩主は要職を歴任したが戊辰時の藩主頼之は桑名藩主の六男だが東征軍に従い三国戦争で上野諸藩とともに会津藩と戦った。
小幡 群馬県甘楽町 奥平忠恕(ただゆき) 譜代 2 城主格 奥平信昌立藩。転封後水野、永井氏入転封後織田信雄の四男信良が入封。信邦の時明和事件に家臣が関わった責めを受け移封、松平忠恒が入封し歴代要職に就く。武州一揆に出兵鎮圧。戊辰時恭順し新政府軍の下で戦う。
大戸 群馬県吾妻郡吾妻町大戸 譜代 陣屋 岡成之立藩するも子家俊の時、大阪の陣で裏切りの罪で除封、天領。大戸関所設置、国定忠治関所前で磔刑。
白井 群馬県北群馬郡子持村吹屋 譜代 城主 本多康重立藩、転封。松平康長入封、転封廃藩後西尾忠永、そして本多康重の次男紀貞が入封するも嗣子なく廃藩。
三之倉 群馬県群馬郡倉淵村三ノ倉 譜代 陣屋 松平近正、伏見城戦で戦死。子一生、加増立藩。子成重の時罪を受けたが許され下野板橋に転封。廃藩
総社 群馬県前橋市総社町 譜代 城主 諏訪頼水立藩。転封後秋元長朝が関ヶ原の軍功で加増築城。子泰朝、東照宮造営、都留郡内城代で加増転封
板鼻 群馬県安中市板鼻 譜代 陣屋 里見芳成立藩。嫡男義高、勤務怠慢で除封。酒井忠世の嫡男忠行立藩。父の遺領を継ぎ自領と合せ前橋藩主に
豊岡 群馬県高崎市下豊岡町 譜代 陣屋 東信濃地方の名門、海野重道の末裔禰津信政、関ヶ原の役の前に家康に取り立てられ立藩。その後嗣子なく廃藩。
藤岡 群馬県藤岡市 譜代 陣屋 小諸城主依田康国、家康から名字、松平姓を貰う。弟康勝、家康関東入部に伴い立藩。刃傷沙汰で出奔、没収
大胡 群馬県勢多郡大胡町河原浜 譜代 城主 牧野康成立藩。関ヶ原の役で軍律違反を犯し処罰。嫡男忠成大阪の陣で軍功をたて加増、長峯に転封。廃藩
那波 群馬県伊勢崎市堀口町 譜代 陣屋 松平家野乗立藩。移封後酒井忠世領有、秀忠将軍宣下随行加増転封。酒井忠能、分与入封したが小諸へ転封
篠塚(上里見) 群馬県邑楽郡邑楽町 譜代 陣屋 松平忠恒、桑折から移封立藩。残りの陸奥藩領も領知変えとなり陣屋を上里見に移し廃藩。後加増を受け小幡へ
阿保 群馬県新田郡阿布 譜代 陣屋 今川の家臣菅沼定盈家康の臣下に。関ヶ原の役に江戸城留守居役を。立藩。嫡男差仍 関ヶ原の軍功で加増転封
青柳 群馬県館林市青柳町 譜代 陣屋 近藤秀用、青柳を領す。その後加増立藩。嫡男季用は小田原の陣で北条方の大将を討つ。相続後井伊谷に転封
下総 結城 茨城県結城市本町 水野勝寛(かつひろ) 譜代 1.7 城主 結城秀康越前北ノ庄に移封。暫後元刈屋城主水野忠政の系統の勝長立藩、結城城築城。幕末、二本松丹羽家からの養子勝知は佐幕派として国許の恭順派と対立、結城城入城で両派で戦闘、勝知入城したが新政府軍の攻撃で敗北脱出したが捕らえられ謹慎、勝寛が藩主に。
古河 茨城県古河市桜町 土井利与(としとも) 譜代 8 城主 家康は関東の要衝としてまず小笠原秀政を入封立藩。その後戸田松平、小笠原、奥平、永井氏入転封後老中後大老の土井利勝が入封、古河城を関東一の規模に大改修した。次の堀田氏も大老に昇進したが江戸城中で刺殺された。その後も藤井松平、大河内松平、本多、松井松平、そして土井氏の再入封と譜代、幕閣の名門家が頻繁に入封土井氏が定着。利厚は藩政を改革、貧民救済策や家臣の御救方の設置、人材育成に勤めた。利位は大塩平八郎の乱鎮圧や天保の改革の失敗の後の政局を担う等いずれも老中として活躍した。戊辰時佐幕・勤王悩んだ末恭順。
生実 千葉県千葉市中央区生美 森川俊方(としかた) 譜代 1 陣屋 森川重俊、大阪の陣で軍功、忠隣事件連座を許され秀忠に仕え陣屋を構える。その後房総では珍しく明治まで在封。
曽我野 千葉県千葉市中央区曽我町 戸田忠綱(ただつな) 譜代 1 陣屋 宇都宮藩家老戸田忠至、藩の苦境の打開の為天皇陵を修補。宗家より分与高徳藩立藩。明治に曽我野に転封立藩
佐倉 千葉県佐倉市城内町 堀田正倫(まさとも) 譜代 11 城主 三浦義次立藩。家康の子、信吉・忠輝の後一時幕領。その後小笠原、土井、石川、形原松平、堀田氏と頻繁に譜代大名が入封。土井利勝が現在の城郭を完成、前期堀田氏の時佐倉惣五郎事件が起る。堀田氏除封後大給松平、大久保、戸田、稲葉、大給松平が再封後堀田氏も再封し定着した。浅間山の大噴火、利根川の洪水で被害を被り財政は困窮した。正睦は老中として水野忠邦と天保の改革を推進したが失敗失脚したが幕末に返り咲き日米修好通商条約を調印。戊辰時将軍慶喜の助命嘆願の為西上したが藩主正倫が新政府軍に捕えられた為勤王に決定。
多古 千葉県香取郡多古町多古 松平勝慈(かつなり) 譜代 1.2 陣屋 保科正光立藩。高遠に転封廃藩。土方氏入封するも転封廃藩。松平勝以、大阪定番に昇進し加増立藩。以後在封
関宿 千葉県野田市関宿町 久世広業(ひろなり) 譜代 4.3 城主 松平康元入城す。忠良加増転封後能見松平、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野後久世氏が再入封。広明の時大阪城代に昇進した為一時領地替えで河内に移ったが三度入封。老中になったが城地は利根川、江戸川に挟まれ再三洪水の被害にあった。広周は老中在職中、日米修好通商条約の締結と将軍後継問題に翻弄されたが井伊直弼死後老中に復権し公武合体を推進、和宮降嫁を実現した。しかし公武周旋は失敗謹慎。藩内は勤王佐幕の抗争激化
小見川 千葉県香取郡小見川町小見川 内田正学(まさあきら) 譜代 1 陣屋 松平家忠立藩。土井利勝、安藤重信いずれも加増うけ転封、一時廃藩。鹿沼から内田正親再立藩。明治まで在封。
高岡 千葉県香取郡下総町高岡 井上正順(まさより) 譜代 1 陣屋 井上政重、島原の乱の鎮圧の功により加増、定府大名に。政蔽の時陣屋を構えて立藩。明治まで在藩す。
山川 茨城県結城市上山川 譜代 陣屋 松平定綱陣屋を構える。転封後大阪の陣の軍功で水野忠元が入封。嫡男忠善性剛毅、勇武を好む。田中へ移封
大輪 茨城県水海道市大輪町 譜代 陣屋 土井利勝の四男利直分与立藩。しかし家督相続の際の手続きが粗忽として領地半減、旗本に。廃藩。
守谷 茨城県北相馬郡守谷町 譜代 陣屋 土岐定政陣屋を構える。土岐氏は家康の下、小牧・長久手、小田原の陣等で軍功挙る。子定義、加増高槻に転封
井野 茨城県取手市井野 譜代 陣屋 本多作左衛門重次陣屋を構える。子成重、加増受け越前丸岡へ移封、廃藩。(一筆啓上火の用心ーーーーー)
布川 茨城県北相馬郡利根町布川 譜代 陣屋 藤井松平氏の嫡男信一陣屋を構える。関ヶ原の役、江戸崎城の守備等の功績で加増。後常陸土浦に移封、廃藩
山崎 千葉県野田市山崎 譜代 陣屋 岡部正綱、家康に仕え、子長盛、戦いで軍功をたて陣屋を構える。その後加増を受け丹波亀山へ転封、廃藩。
栗原 千葉県船橋市西船 譜代 陣屋 成瀬正成陣屋を置く。関ヶ原の役で加増、後尾張藩付家老に。当地は次男之成が相続し立藩。後嗣子なく断絶。
臼井 千葉県佐倉市臼井 譜代 陣屋 酒井忠次の嫡男家次、立藩。封禄が少ないのは信康の自害に対する不行届の結果か。後上野高崎に転封廃藩。
岩富 千葉県佐倉市岩富 譜代 陣屋 北条氏政の家臣氏勝、降伏し家康の臣下に。岩富城攻略に軍功、立藩。死後保科氏重が養子に。後富田へ移封。
上代 千葉県香取郡東庄町東和田 譜代 陣屋 十八松平の一氏。松平家忠軍功挙げ忍に入封後移封立藩。江戸城普請、伏見城普請で功績。小見川に転封廃藩。
矢作 千葉県佐倉市佐原木 譜代 城主 島居母元忠、佐竹氏に対峙、入城立藩。元忠は伏見城で死守。次男忠政加増うけ磐城平へ。後の三浦氏も転封
大須賀 千葉県香取郡大栄町 譜代 陣屋 三河三奉行の一人天野康景立藩。関が原の軍功で加増、駿河興国寺へ転封廃藩。家康の今川家人質時代の小姓
小南 千葉県香取郡東圧町小南 家門 陣屋 家康の生母、お大の方の四男水野松平定勝立藩。関が原の役の軍功で加増うけ掛川に転封、廃藩。
小詩 千葉県八日市場市東子笹 譜代 陣屋 酒井忠次の次男康俊、本多忠次の養子に。小田原の陣で秀吉の人質、陣後立藩。関が原の役の軍功で加増転封。
蘆戸 千葉県旭市イ 譜代 陣屋 名門木曽義仲の後裔義昌立藩。嫡男義利、関が原の役で西軍に組し領地没収。木曽氏の家臣は離散、追放。
上総 菊間 千葉県市原市菊間 水野忠敬(ただのり) 譜代 5 陣屋 徳川慶喜の大政奉還により16代将軍家達駿河に立藩。この為駿河、遠江の諸大名の領地替えが起き、沼津の水野忠敬は知行の一部を市原に移され立藩。戊辰時尾張藩主の勧告を受けて新政府に恭順、甲府城代を命じられる。
鶴牧 千葉県市原市椎津 水野忠順(ただより) 譜代 1.5 城主格 水野忠韶、北条から移封立藩。若年寄に昇進、嗣子なく水野家より養子。引続き幕閣で活躍。戊辰戦争時恭順
鶴舞 千葉県市原市石川 井上正直(まさなお) 譜代 6 陣屋 慶喜の大政奉還に伴う領地替えで浜松の井上正直立藩。幕末老中として活躍、また外国御用取扱を命じられる。
桜井(金崎) 千葉県木更津市桜井 松平信敏(のぶとし) 譜代 1 陣屋 慶喜の大政奉還に伴う領地替えで小島の松平信敏金崎に立藩。後不便につき貝淵に移す。短期間だが学問奨励
請西 千葉県木更津市請西 林忠崇(ただたか) 譜代 1 陣屋 林忠旭、忠英のあとを継ぎ陣屋を貝淵より移す。戊辰時藩士を率いて会津・米沢等を抗戦、仙台で降伏。藩領没収
大多喜 千葉県大多喜町 大河内正質(まさただ) 譜代 2 城主 本多忠勝立藩。以後阿部、青山等譜代大名の入転封が続いた上、廃城にもなったが松平正久が入封し安定した。。
最後の藩主正質は老中格として鳥羽伏見の戦いで鳥羽口の指揮官として大敗、領地官位没収されたが許しをえる。
飯野 千葉県富津市 保科正益(まさあり) 譜代 2 陣屋 保科正貞立藩。大阪定番を任ぜられる。幕末、第二次長州征討で石川口の戦いを指揮。戊辰戦争時難局を克服
小久保 千葉県富津市小久保 田沼意斉(おきたか) 譜代 1 陣屋 慶喜の大政奉還に伴う領地替えで相良の田沼意尊立藩。藩校盈進館を創設、学問を奨励。
佐貫 千葉県富津市 阿部正恒(まさつね) 譜代 1.6 城主 内藤家長立藩。嫡男政長の時加増転封。幕領後桜井松平、能見松平氏入封。重治の時寺社奉行在職中の不正で除封。廃藩後刈谷から阿部正鎮が入封し明治に至る。最後の正恒は戊辰時、一時新政府軍に捕らえられ謹慎。
久留里 千葉県君津市久留里 黒田直養(なおたか) 譜代 3 城主 松平忠政入封。転封後土屋忠直が立藩。直樹の時お家騒動で除封。一時廃藩後黒田直純が再立藩し明治に至る
一宮 千葉県長生郡一宮町一宮 加納久宜(ひさよし) 譜代 1.3 陣屋 吉宗の側近加納久通、享保の改革の功で伊勢八田に立藩。久儔、父祖の地一宮に。か納氏は幕末幕閣として活躍
松尾(柴山) 千葉県山武郡松尾町松尾 太田資美(すけよし) 譜代 5 城主 慶喜の大政奉還に伴う領地替えで掛川の太田資美、柴山藩立藩。後山林原野を開拓新城下を竣工、藩庁を移す
五井 千葉県市原市五井 譜代 陣屋 吉宗の側用人、有馬氏倫伊勢西条に立藩。氏恕の時五井に移封立藩。氏郁の時下野吹上に転封、廃藩。
八幡 千葉県市原市八幡 譜代 陣屋 堀直良、市原郡に八幡藩立藩。直宥の時移封廃藩。大久保忠高も八幡に陣屋を構えていたが常春の時烏山に
潤井戸 千葉県市原市潤井戸 譜代 陣屋 永井尚政、関ヶ原、大阪の戦で軍功たて立藩。後老中に昇進。父直勝の死去で古河の遺領を相続し転封の為廃藩
姉崎 千葉県市原市姉崎 家門 陣屋 結城秀康の次男松平忠昌立藩。関ヶ原、大阪で軍功、下妻に転封。三男の直政が一時在封したが大野に転封廃藩
高滝 千葉県市原市大和田 譜代 陣屋 板倉重宣、叔父の坂城藩主重種の領地家督相続争いの結果、嫡男重寛と分与立藩。重宣没後庭瀬に転封、廃藩
貝淵 千葉県木更津市貝淵 譜代 陣屋 林忠英立藩。11代家斉の寵臣。家斉没後水野忠邦に職を免じら減封。嫡男忠旭、陣屋を請西に移す。廃藩。
百首 千葉県富津市竹岡 譜代 陣屋 松平重勝の三男重則、関ヶ原、大阪の戦で軍功たて加増立藩。後皆川の移封廃藩。百首は里見水軍の本拠地
勝浦 千葉県勝浦市串浜 譜代 陣屋 植村忠朝立藩。恒朝の時分家千吉死亡の偽り報告が発覚除封。大岡忠光が入封、側用人に昇進、岩槻に。廃藩
苅谷 千葉県夷隅郡夷隅町苅谷 譜代 陣屋 堀直政の五男直之加増うけ陣屋を椎谷から苅谷へ移す。直景の時立藩。嫡男直良相続し陣屋を八幡に移す。廃藩
茂原 千葉県茂原市茂原 譜代 陣屋 大久保忠佐立藩。忠佐は戦で度々軍功をたてる。上杉征討、秀忠に従い上田城を攻撃し加増うけ沼津へ転封廃藩
大網 千葉県山武郡大網白里町大網 譜代 陣屋 出羽長瀞藩主米津政敏、戊辰戦争で陣屋、町並が焼かれ藩政は極度に混乱。仮藩庁を大網に移したが後竜ヶ崎へ
鳴渡 千葉県山武郡成東町成東 譜代 陣屋 石川康通立藩。関ヶ原の役で三成の居城佐和山城を攻略、加増うけ大垣に転封廃藩。父家成は徳川軍団の侍大将
安房 長尾 千葉県安房郡白浜町白浜 本多正憲(まさのり) 譜代 4 陣屋 慶喜の大政奉還に伴う領地替えで田中の本多正訥立藩。藩校日知館を移し広く入学を許す等進歩的教育を行った
花房 千葉県鴨川市横渚 西尾忠篤(ただあつ) 譜代 3.5 陣屋 慶喜の大政奉還に伴う領地替えで横須賀の西尾忠篤立藩。花房村鏡忍寺を仮所、後岩槻藩出張所内に仮藩庁設置
加知山(勝山) 千葉県安房郡鋸南町勝山 酒井忠美(ただよし) 譜代 1.2 陣屋 内藤忠政の孫清政加増立藩。内藤氏はその後二度除封になったが62年後に高遠で再興す。小浜藩主酒井忠直の甥忠国、分与受け立藩。忠隣の時年貢減免の大一揆が起き、幕府が乗り出し名主遺族の訴えが認められる。最後の忠美が加知山藩に改名、藩校育英館を創設し藩士、町民が共に学ぶ儒学教育を行った。
館山 千葉県館山市館山 稲葉正善(まさよし) 譜代 1 陣屋 名門里見家の領国。忠義の時大久保忠隣改易事件に連座を理由に倉吉に転封。外様大名取り潰し政策。城は破却170年後稲葉正親の三男正明が分家の養子になり再立藩。陸軍奉行等幕府要職を歴任したが戊辰戦争時恭順
東条 千葉県鴨川市東町 譜代 陣屋 西郷正員、大阪の陣で軍功たて立藩。後寿員の時下野上田へ転封廃藩。秀忠の生母西郷局愛子は一族。
北条 千葉県館山市北条 譜代 陣屋 忠長卿付衆屋代忠正立藩。藩財政立て直し中に一揆が起り領地没収廃藩。後水野忠定入封したが鶴牧に移封廃藩
清水家 徳川篤守(あつもり) 御三家 10
田安家 徳川慶頼(よしよし) 御三家 10
一橋家 徳川茂栄(もうはる) 御三家 10
武蔵 埼玉県行田市 奥平忠敬(ただのり) 家門 10 城主 松平家忠立藩。転封後松平忠吉入封、利根川の流路変更等積極的に開発。一時天領、後松平信綱、阿部忠秋が入封。信綱は島原の乱を鎮圧、忠秋も老中として幕閣を担った。正武は忍城を修築、正喬は秩父絹市を保護育成し又藩士の内職として行田足袋製造を奨励した。次に奥平松平忠堯が入封、外国船の来航により上総、安房の沿岸防備の為陣屋を建造、又長州征伐の際の京都警護、鳥羽伏に出兵したが戊辰時新政府に恭順し会津攻略に派兵した。
川越 埼玉県川越市 松平康載(やすとし) 譜代 8 城主 酒井重忠立藩。前橋へ転封、番城後弟忠利が入封、喜多院を造営。没後嫡男忠勝が深谷から入封、謹厳、好学の風で徳望を集める。後堀田正盛、松平信綱等幕閣の重鎮が入封した。堀田氏の時川越大火により喜多院・東照宮が罹災。信綱は城構え、城下の整備、野火止用水の開削、新河岸川の改修等行った。その後柳沢吉保が入封、川越南方の原野を開拓、続いて秋元喬知が入封しローム層に合う養蚕、絹織物、川越いも等の栽培を奨励。次に松平朝矩が城地崩壊の危機から前橋より移った。松平氏は財政再建の為養蚕・絹織物等農業産業の育成に努めたが困窮は続庄内への所替えを願ったが果たせず幕末、前橋に戻る。松平康英入封、老中辞し新政府軍に恭順して奥羽派兵す。
岩槻 埼玉県岩槻市 大岡忠貫(ただつら) 譜代 2.3 城主 高力清長入封。孫忠房、大阪の軍功で加増転封。その後青山、阿部、板倉、戸田、松平、小笠原、永井氏と譜代の有力大名が入転封後家重の側用人大岡忠光が入封。忠光は病弱な家重に謙虚に仕え又産業振興にも勤めた。しかし相次ぐ天災により領内は荒廃、忠正の時藩校を創設し士風の刷新等藩政の回復に努めた。幕末江戸城本丸普請、江戸湾防備に藩士や武器を送る等重責を果たしたが、最後の忠貫は新政府軍に恭順し幕府軍の脱走兵を追討した。
六浦 神奈川県横浜市 米倉昌言(まさこと) 譜代 1.2 陣屋 若年寄米倉昌尹皆川に立藩。養子の柳沢吉保の六男忠仰の時金沢に陣屋移転。以後大番頭、大阪定番等勤める
本庄 埼玉県本庄市本庄 譜代 陣屋 小笠原信嶺立藩。没後養子信之が継いだが古河に加増転封、廃藩。後中仙道の宿駅として発展。
八幡山 埼玉県児玉郡児玉町八幡山 譜代 陣屋 松平清宗・家清父子入城立藩。家清、九戸政実の乱や関が原の役の軍功で加増三河吉田へ転封廃藩。
岡部 埼玉県大里郡岡部町岡部 譜代 陣屋 安部信盛立藩。信峯の時陣屋を築く。信宝の時文武振興の為藩校学聚館と偃武館を新設す。明治に半原に、廃藩。
深谷 埼玉県深谷市仲町 譜代 陣屋 松平康直、深谷城を居城立藩。嗣子なく家康六男忠輝立藩。松平忠重、酒井忠勝と続くが忠勝が川越に移封し廃藩
東方 埼玉県深谷市東方 譜代 陣屋 戸田康長立藩。家康より松平姓を貰う。東方古城跡に陣屋を築く、関が原の役で軍功たて上野白井に転封、廃藩
瓶尻 埼玉県熊谷市三ケ尻 譜代 陣屋 三宅泰貞立藩。九戸政実の乱、関が原の役の軍功で加増、三河挙母へ移封、廃藩。
羽生 埼玉県羽生市東 譜代 城主 家康の関東入部により大久保忠隣入城立藩。忠隣は一時羽生・小田原城併せ領有したが罪を得て領地没収、廃藩。
私市 埼玉県北埼玉郡騎西町根古屋 譜代 城主 松平康重入城立藩。関が原の役の軍功で加増、笠間へ転封。大久保忠常が入封、子忠職の時加納に転封、廃藩。
久喜 埼玉県久喜市久喜本 譜代 陣屋 米津田盛、大阪定番に昇進加増うけ立藩。子政武、領地替えで久喜に陣屋を。通政の時出羽長瀞に陣屋移し廃藩
石戸 埼玉県北本市石戸宿 譜代 陣屋 牧野康成石戸城に入城。子信重、御留守居に昇進し加増立藩。関宿に転封の際旧石戸領は5千石で親成に。廃藩
松山 埼玉県比企郡吉見町北吉見 譜代 城主 松平家広入城立藩。弟忠頼が家督を継ぐ。関が原の役で岡崎城の守衛等軍功たて、加恩うけ浜松に転封、廃藩。
野本 埼玉県東松山市下野本 譜代 陣屋 渡辺半蔵陣屋を構える。半蔵は名古屋藩徳川家に付属、領地を知行した吉綱が昇進加増立藩。基綱の時転封廃藩
高坂 埼玉県東松山市高坂 譜代 陣屋 加々爪政尚陣屋を構える。子忠澄大目付に昇進、直澄の時立藩、寺社奉行も勤めたが直清の時領地争いから廃藩
奈良梨 埼玉県比企郡小川町奈良梨 譜代 陣屋 諏訪頼忠の子頼水立藩したが2年後総社に転封廃藩。以後幕府領となる。当地は和紙の里として知られる
鯨井 埼玉県川越市鯨井 譜代 陣屋 戸田一西家康譜代の臣として戦場駆巡り軍功たて陣屋を構える。更に関が原の役で加増受け大垣城に移り廃藩。
赤沼 埼玉県比企郡鳩山町赤沼 譜代 陣屋 内藤正勝、比企郡内に知行、更に大阪定番に昇進し攝津に加増立藩。子正友の時領地替えで岩村田に転封廃藩
原市 埼玉県上尾市原市 譜代 陣屋 原市周辺に知行する西尾吉次、美濃に加増うけ立藩。家康の奏者番として信任厚く、養子忠永の時白井に転封廃藩
小室 埼玉県北足立伊奈町小室 譜代 陣屋 関東郡代の伊奈忠次立藩。新田開発、殖産興業に尽力、幕府創業期の財政確立に貢献。その後嗣子が続かず除封
鳩谷 埼玉県鳩ヶ谷市本町 譜代 陣屋 阿部正勝知行。正勝は家康の幼な友達として良く家康を守った。子正次の時加増立藩。その後大多喜に転封廃藩。
喜多見 東京都世田谷区喜多見 譜代 陣屋 世田谷吉良氏の家臣喜多見勝忠、所領安堵さる。重政の時綱吉に信任され加増立藩。しかし綱吉の意に背き除封
相模 小田原 神奈川県小田原市 大久保忠良(さだよし) 譜代 7.5 城主 大久保忠世が入城立藩。嫡男忠隣の時本多正信と対立し改易配流。改易後城の石垣と外郭の一部が破却、代官領となる。次に春日野局の子稲葉正勝が入封、東海道の要として幕府の命により城の修築をする。正則は箱根用水を完成させ大規模な新田開発を行った。転封後大久保忠朝が入封し72年ぶりに大久保氏が復活した。大久保氏は物資の流通、作物の収穫の良さで財政を支える一方東海道の要としての箱根の嶮の管理を重視した。しかし大地震と富士山噴火で農村は荒廃し財政は窮乏した。農村復興の為二宮尊徳を起用し藩政改革を実施、藩士には質素倹約を励行させた。異国船来航が頻繁になると海防派兵と武備を強化。維新時、勤王佐幕で割れたが箱根戦争で勤王に。
荻野山中 神奈川県厚木市中荻野 大久保教義(のりよし) 譜代 1.3 陣屋 小田原藩主大久保忠朝の子教寛、駿河に加増松永村に立藩。更に相模愛甲郡等に加増受け、教翅の時陣屋を移す最後の藩主教義の時、薩摩藩邸に集まった水戸浪士が首領の浪士隊が陣屋を襲撃、鳥羽伏見の導火線になる。
甘縄 神奈川県鎌倉市玉縄 譜代 陣屋 本多正信立藩。子正純、関が原の軍功で加増転封。廃藩後大河内正綱が立藩したが正久の時大多喜に転封廃藩
甲斐 府中(甲府) 山梨県甲府市丸の内 譜代 城主 関が原後、浅野幸長が和歌山へ転封、直轄領後、九男義直に。幼少につき平岩親吉傳役。尾張に転封、城番がおかれた。その後秀忠三男忠長が入封したが家光との確執で除封、幕府領に。家光の三男綱重が入封した。嫡子綱豊は綱吉の養嗣子となり六代将軍になった為柳沢吉保が入封、城下町も拡張、整備し繁栄した。嫡男義里も穂坂堰の大改築、検地の実施、特産品の生産、甲州金の改鋳を実施。吉里は最後の藩主、大和郡山に転封、廃藩幕府領
谷村(郡内) 山梨県都留市市川棚 譜代 城主 島居元忠の三男成次、関が原の軍功で立藩。忠長の付家老になったが嫡男成信が忠長乱行により除封廃藩。秋元泰朝再立藩、郡内絹の育成を図る。喬朝は才能優れ、老中に昇進したが越訴が起き7人の死罪をだした。転封廃藩
徳美 山梨県甲府市朝日・美咲 譜代 陣屋 伊丹康勝、甲府城番命じられ加増立藩、長男勝長が勘定頭になったが蒲原代官に斬殺さる。勝守狂疾で自害、除封
駿河 静岡(府中) 静岡県静岡市駿府町 徳川家逹(いえさと) 将軍家 70 城主 中村一氏転封後内藤信成が入城立藩。転封後家康大御所として隠居地、そして家康十男水戸藩主頼宣が入封したが大御所が支配。家康没後和歌山転封、廃藩になったが秀忠の三男忠長が入封し再立藩。しかし粗暴行為で除封、幕府領となった。幕末徳川宗家の相続人、家達が70万石で入封立藩、この為浜松、相良、横須賀、掛川、田中、小島の各藩は上地となった。家達は富国強兵策に取組み牧の原の開拓、茶樹の栽培など殖産興業策を行った。
沼津 静岡県沼津市大手町 譜代 城主 中村一栄転封後大久保忠佐が入封立藩したが嗣子なく廃藩。幕府領後水野忠友が入封し明治まで在封、歴代側用人、老中等幕閣の中心を担った。幕末、尊王を標榜する尾張徳川家の指揮下で東征総督の護衛を努めた。。総督の命令で甲府城代となったが不行跡で罷免、祖父忠寛の努力で藩存続したが。府中藩創設で上地。菊間へ転封廃藩。
 
興国寺 静岡県沼津市東根古屋 譜代 城主 天野康景が入城立藩。しかし藩の足軽が天領農民を殺害したことから自領農民保護の為逐電、除封。
川成島 静岡県富士市川成島 譜代 陣屋 本郷泰固、徳川慶喜の相続実現に奔走し若年寄に昇進、加増立藩。しかし一橋党と目され減封謹慎。万石以下廃藩
小島(滝脇) 静岡県静岡市清水小島本町構内 譜代 陣屋 松平信孝立藩。信治の時小島に陣屋を構える。”生籾五分ずり”の増徴政策等財政改革に努力。桜井に転封廃藩
田中 静岡県藤枝市田中 譜代 城主 東海道の要として譜代の酒井忠利立藩。その後三枝、桜井松平、水野、藤井松平、北条、西尾、酒井、土屋、太田、内藤、土岐氏と藩主が小刻みに交代した後本多正重の家系が明治まで在封し歴代幕閣に参与した。最後の正訥は駿府城代等勤めたが戊辰時、尾張藩と同様に新政府軍に恭順、府中藩の創設で転封、廃藩。
久能 静岡県静岡市根古屋 譜代 城主 松下重綱が入城していたが転封、榊原清政が立藩。だが家康没後廟堂が建てられ、榊原氏は久能総門番となる。
伊豆 下田 静岡県下田市三丁目 譜代 城主 小田原の陣後内藤家長が入封したが転封、戸田忠次が入封立藩。尊次の時田原に転封廃藩、以後幕府直轄地。
韮山 静岡県田方郡韮山町 譜代 陣屋 小田原の陣後内藤信成が入封立藩したが府中に移封、廃藩。以後江川家が幕府代官として天領を支配した。
遠江 浜松 静岡県浜松市元城町 譜代 城主 家康が駿府へ移った後菅沼氏、堀尾氏が入城、関が原の軍功で堀尾氏は転封。その後桜井松平忠頼が入封立藩したが茶会で論争から殺害され除封。家康十男頼宣の付家老水野重仲が領有したが頼宣和歌山転封により新宮に移る。次に高力忠房が入封し城下町、宿場を整備し伝馬制の維持経営を行った。その後大給松平、太田、青山、本庄松平、大河内松平、本庄松平、井上氏と譜代大名が入転封。そして水野忠邦が入封、浜松藩主は幕閣での出世コースといわれ京都所司代、老中と昇進し天保の改革を断行したが上知令への反対から罷免、後山形へ左遷、井上正春が入封。最後の正直は海防の台場築場,藩校創設、勤倹の徹底、他方遠州木綿業の基礎を開いた。又老中として生麦事件の解決、長州征伐で家茂に供奉したが戊辰時素早く新政府軍に恭順、従軍した。府中藩の創設で転封廃藩。
掛川 静岡県掛川市掛川 譜代 城主 山内一豊が転封後久松松平定勝が入封立藩。その後安藤、久松松平、朝倉、青山、桜井松平、本多、藤井松平、北条、井伊、桜井松平、小笠原氏と東海道の防衛で譜代が封ぜられ太田道灌の末裔が明治まで在封。資始は京都所司代、老中と昇進したが水野忠邦の天保の改革に反対し辞職。後井伊直弼に請われ老中になったが直弼の弾圧にも反対し謹慎。一方二宮尊徳仕法を執りいれ民生の安定に努めた。戊辰時逸早く恭順。府中藩の立藩で転封、廃藩。
相良 静岡県榛原郡相良町相良 譜代 城主 武田氏滅亡後徳川氏の直轄地,後本多忠晴が立藩。板倉、本多氏が入転封後田沼意次が入封、将軍家重、家治の信任をうけ側用人に昇進、築城が許可された。更に老中に就任と異例の出世を遂げ、一族も要職に就いたが反対派の松平定信により免職、転封廃藩、城も破却。その後意次の次男意正が復帰再立藩。府中藩の立藩で転封廃藩
横須賀 静岡県小笠郡大須賀町山崎 譜代 城主 有馬豊氏転封後榊原家からの養子大須賀忠政が再入封、没後幕命で子忠次が榊原家を継いだ為絶家。一時廃藩、頼宣が領有した後能美重勝が再立藩。次に井上、本多氏の入転封後西尾忠成が入封し明治まで在封した。子忠尚は名君の誉れ高く、若年寄、老中に昇進加増も受ける。府中藩の立藩で安房花房転封廃藩。
久野 静岡県袋井市久能 譜代 城主 久野城主に復帰した久能宗能が佐倉に転封後松下之綱立藩。廃藩後北条氏重が再立藩したが関宿に転封廃藩。
堀江 静岡県浜松市観山寺町堀江 譜代 陣屋 高家大沢基寿は新政府に領有高を虚偽報告し立藩。だが領民の蜂起で操作を新政府に知られ華族を除名、士族へ。
井伊谷 静岡県引佐郡引佐町 譜代 陣屋 近藤季用立藩。嫡男貞用に分与、万石以下となり廃藩。その後加増も受けたが一族に分与、幕末まで旗本で居住。
信濃 上田 長野県上田市二の丸 松平忠礼(ただなり) 譜代 5.3 城主 関ヶ原の役で秀忠軍を釘づけにした真田昌幸父子は嫡男信之の歎願で高野山へ。上田城は破壊されたが大阪の陣後信之、上田に入封。が松代に転封し仙石忠政が入封、真田氏創業のあとを受けて新田開発、産業振興に努めた。転封後松平忠周が入封し老中など幕府要職を歴任する一方地方知行制を全廃、貢租体系を米納に切り換える等改革したがその後の大火、豪雨災害で財政は窮乏した。宝歴には農民一揆”上田縞崩格子”騒動が起きている。幕末忠固は老中として井伊直弼と協力開国に尽力したが日米条約の違勅調印責任者として謹慎。藩政活性の為産物改所を設け国産品の絹・紬・糸を販売させた。戊辰時忠礼は当初幕府に忠誠を誓ったが新政府軍に恭順、参陣す。
竜岡(田野口) 長野県南佐久郡臼田町田口 松平乗護(のりたか) 譜代 1.6 陣屋 松平乗謨、領地の大半がある田野口に三河から居所移し立藩。老中格、陸軍総裁等歴任。五稜郭龍岡城を築城。
小諸 長野県小諸市古城懐古園内 牧野康民(やすたみ) 譜代 1.5 城主 仙石秀久入城立藩。転封後徳川忠長領、松平、青山、酒井、西尾、松平氏と続き与板から牧野康重が入封定着。康哉の時育児法、養老法、種痘法を制定、また若年寄として幕政の中核をなした。維新時藩論は二分したが無事収拾
飯山 長野県飯山市飯山 本多助実(すけざね) 譜代 2 城主 皆川広照、忠輝の傳役として入城立藩。広輝除封後堀、佐久間、松平、永井、青山氏とめまぐるしい交替後本多氏が明治まで在封。その間千曲川の水害、善光寺平地震等で財政は窮乏、度度一揆が勃発した。その中で助賢は藩校創設し子弟の文教面に注力した。戊辰時幕府残党の反乱で城下は戦火にさらされたが新政府軍の来演で鎮圧。
須坂 長野県須坂市須坂 堀直明(なおあき) 外様 1 陣屋 堀直重、大阪の陣で軍功たて加増立藩。丸山巨宰司を登用し財政再建に尽力したが失敗、家老一味に実権を握られる。直虎の時権限を奪取、維新時抗戦か恭順かで対立し江戸城内で切腹。戊辰時直尚は新政府軍に参陣
飯田 長野県飯田市追手町 堀親広(ちかひろ) 外様 1.5 城主 関が原後小笠原秀政入封。次の脇坂安元は文武に優れ林羅山らと交流し当地の学問・文化の発展の素地に。転封後堀親昌が入封したが次第に藩内の財政は御定借方式が採用され城下の豪商に握られた。忠しげは武芸の奨励、倹約令の徹底、備荒貯蓄等治績をあげ幕政にも参画し老中格に昇進。親義は天狗党領内通過に無策として減封さる。
高遠 長野県上伊那郡高遠町東高遠 内藤頼直(よりなお) 譜代 3.3 城主 保科正光、高遠に復帰、秀忠の庶子幸松が相続し正之となる。転封後断絶のところ父忠政の功により島居忠春相続し入封。しかし子忠則の時馬場先門警備不行き届きで転封。幕領後内藤清枚が入封、歴代、家中借り上げ米の制や町仕送りの設定等財政改革を実施したが他方農民一揆も勃発。戊辰時新政府軍に参陣転戦。大奥女中江島流刑地。
松代 長野県長野市松代町 真田幸民(ゆきとも) 譜代扱 10 城主 森忠政、海津入城。その後松平忠輝入封したが改易。松平忠昌、酒井忠勝後真田信之が入封し明治に至る。三代相続で争いが起きたが幕府の裁定で幸道が襲封したが以降財政は大火、日光山の普請、大風水害等で逼迫し年貢増徴や倹約令の徹底、藩士の半知等実施したが効果はなかった。一方井伊家始め有力譜代から養子を迎えたことから準譜代と見なされ幸貫は老中となり水野忠邦と天保の改革を推進した。幕末、佐久間象山を抜擢し海防に注力、ペリー再来航では横浜の警備にあたった。戊辰時逸早く勤王倒幕に踏み切り新政府軍に加わり北越奥羽に転戦。
高島 長野県諏訪市高島 諏訪忠礼(ただあや) 譜代 3 城主 諏訪頼水、関ヶ原の役の軍功で父頼忠を伴い旧領諏訪へ復帰領有。六代藩主後継をめぐる争いがあったが歴代、新田開発、養蚕製糸の振興、藩校創設、凶作に備えた常盈倉の設置等藩政確立に努め一氏支配を維持した。幕末、忠誠は和宮降家応接・水戸天狗党応撃・赤報隊処刑等多難であったが寺社奉行を経てりょう老中格に昇進した。
松本 長野県松本市丸の内 戸田光則(みつひさ) 譜代 6 城主 石川数正入城。子康長の時現在の松本城を完成。しかし大久保長安との姻戚関係から長安没後康長改易。小笠原秀政が故地松本に入封したが大阪の陣で戦死、忠真の時明石に転封。その後戸田、松平、堀田、水野氏と譜代、家門の要人が入れ替り入封。水野忠清は城の改修、江戸城手伝い普請など行った。忠直の時財政困窮から過酷な年貢取立てで強訴”加助騒動”が起きている。忠恒が江戸城での刃傷沙汰で御家断絶tpなり戸田氏が再封、明治迄在封した。その間朱子学を基本理念とし産業振興や藩校創設し文武の向上を図った。一方商品経済の発達は貧富の格差を生み農民一揆が起きている。幕末佐幕藩として和宮下向等活動したが戊辰時勤王方として北越奥羽を転戦。。
岩村田 長野県佐久市岩村田 内藤正誠(まさのぶ) 譜代 1.5 城主格 内藤正友、赤沼から移封立藩。水野忠邦の実弟、正縄が藩主となり大阪定番、伏見奉行等歴任、京都御所取締となる。この時佐久鯉が始まった。最後の正誠は長州征伐に家茂に従い京都へ上ったが、戊辰時新政府軍に参陣,転戦。
長沼 長野県飯山市長沼 譜代 城主 佐久間勝之、大阪の陣で軍功たて立藩。勝ちかの時綱吉の御小姓役を断り、怒りを買って除封。廃藩
川中島 長野県長野市松代町 外様 陣屋 岩城貞隆が関ヶ原の役で西軍に与みし改易されていたが許され立藩。吉隆の時出羽亀田に転封、廃藩。
坂城 長野県埴科郡坂城町 譜代 陣屋 板倉重種、老中罷免され減封入封。嫡男重寛と甥の重宣との家督相続争いが理由。重寛が相続後福島に転封廃藩
三河 田原 愛知県渥美郡田原町田原巴江 三宅康保(やすよし) 譜代 1.2 城主 戸田尊次が父祖の地に立藩。転封後三宅康勝が入封明治まで在藩。しかし痩地の為財政は絶えず窮乏し荻生徂徠の弟子鷹見正長や渡辺崋山を登用し改革を図った。崋山は救荒備蓄の為の”報民倉”を建築や殖産興業、藩校創設等実施したが自殺で頓挫。幕末、康保は海防に注力し様式帆船の建造や農兵隊を結成し軍事力の強化に努めた。
豊橋(吉田) 愛知県豊橋市今橋町 松平信古(のぶひさ) 譜代 7 城主 竹谷松平家清立藩。その後深溝松平、水野、水野、小笠原、久世、牧野、大河内松平、本庄松平氏と頻繁に譜代大名が入れ替わった後大河内松平家が再入封し明治まで在藩した。松平家は再三幕府の要職を務め、信明の時松平定信を助け寛政の改革を行い、又藩校時習館規条を制定し教育の刷新を図った。幕末は開明派として行動した。
西尾 愛知県西尾市錦城町 松平乗秩(のりつね) 譜代 6 城主 本多康利、入城立藩。転封後大給松平、本多、太田、井伊、増山、土井、三浦氏と頻繁に藩主が交替、大給松平氏入封し定着。乗完は老中として寛政の改革で松平定信を補佐。乗全も老中となり家定の傅役安政の大獄で井伊直弼を補佐し佐幕派政権の強化に一役。藩政では財政整理に当り藩校修道館を創設し医学校の済生館を建てる。
岡崎 愛知県岡崎市康生町 本多忠直(ただなお) 譜代 5 城主 家康の祖父の地。田中吉政入城後関が原の軍功で転封し家康の腹心、本多康重(前本多)入封。転封後水野忠善入封、徳川家を支えた名門で幕政を担った。藩政は新田開発に注力、又租税賦役や采地俸禄の軽減を図り領民に慕われたが矢作川の度重なる決壊による収入減等で財政は窮迫した。次に松平、本多氏(後本多)が入封したが歴代矢作川の氾濫に苦しめられた。幕末忠民の時加茂一揆勃発、鎮圧。京都所司代そして老中として和宮降家に尽力。
西端 愛知県碧南市湖西町 本多忠鵬(ただゆき) 譜代 1 陣屋 本多忠相、旗本として西端に陣屋を構える。幕末、大名と同様の任務を受け警備にあたる事を願い出て加増立藩。
半原 愛知県新城市冨岡 安部信発(のぶおき) 譜代 2 陣屋 安部信発は明治元年に武蔵岡部から陣屋を移し立藩。天狗党入党、彰義隊入隊多く恭順と混乱を払拭する為移転
重原 愛知県刈谷市重原本町 板倉勝逹(かつみち) 譜代 2.8 陣屋 福島藩主板倉氏は飛地支配の為重原に陣屋を構えていたが戊辰戦争で降伏、三河に移封された為重原に立藩。
西大平 愛知県岡崎市大平西町 大岡忠敬(ただたか) 譜代 1 陣屋 寺社奉行大岡忠相、加増うけ立藩、目安箱の設置、町火消の創設、出版統制、新田開発等吉宗の有能な官僚。
刈谷 愛知県刈谷市城町 土井利教(としのり) 譜代 2.3 城主 苅谷城主水野忠重、口論から殺害さる。子勝成が相続、大阪の陣で軍功たて転封。その後弟忠清、深溝松平、久松利徳の時家臣の給与を半減、更に農民にも貢租を命じた為、利制の時新規に高掛金を課した為一揆が発生し一部領地換えの処分を受ける。戊辰時、勤王、佐幕で藩内は混乱したが佐幕派の家老が殺害され藩政は勤王で統一。
挙母 愛知県豊田市小坂本町 内藤文成(ふみなり) 譜代 2 城主 三宅康貞、関ヶ原の軍功で加増立藩、築城す。が亀山に転封、廃藩後天領。その後三宅氏の再立藩、転封廃藩、本多忠利の再立藩、転封後内藤政苗が入封。矢作川の水害に悩まされる。養子の紀州藩主の子学文が本格的に築城
作手 愛知県南設楽郡作手村 譜代 城主 松平忠明、奥平氏累代相伝の地亀山城に入城立藩。その後加増受け伊勢亀山に転封、廃藩。
新城 愛知県新城市西入船 譜代 城主 於大の方の弟水野分長、新城城に入城立藩。子元綱加増転封、廃藩。その後菅沼定盈の孫定実が入城旗本支配。
中島 愛知県蒲郡市 譜代 陣屋 板倉重矩、深溝から移封立藩。その後京都所司代、老中と昇進し加増受け烏山に転封、廃藩。
形原 愛知県蒲郡市形原町 譜代 城主 形原家信、関ヶ原の軍功で本領に戻り形原城に入城立藩。その後加増受け高槻に転封、廃藩。
深溝 愛知県額田郡幸田町 譜代 陣屋 深溝家忠、伏見城戦で戦死。子忠利、遺領を移され立藩。後転封廃藩。板倉重昌再立藩しが戦死、子重矩移封廃藩
奥殿(大給) 愛知県岡崎市奥殿町雑谷下 譜代 陣屋 松平真次、大給に陣屋構え乗次の時立藩。乗真の時奥殿に移すが最後の乗謨が所領の多い信濃龍岡に移し廃藩。
伊保 愛知県豊田市伊保町 譜代 陣屋 丹羽氏次、関ヶ原の軍功で立藩。子氏信も大阪の陣の軍功で転封廃藩。その後本多忠晴が再立藩したが転封廃藩
足助 愛知県東加茂郡足助町 譜代 陣屋 本多忠周、陣屋を構える、寺社奉行に昇進し加増立藩。しかし勤務状態不良で蟄居減封廃藩、寄合旗本で在所す。
大浜 愛知県碧南市湖西町 譜代 陣屋 水野忠友、若年寄に昇進、加増立藩。後側用人に転じ沼津に転封廃藩。転封後も三河に領地を持ち陣屋を置いた
尾張 犬山 愛知県犬山市犬山北古券 成瀬正肥(まさみつ) 譜代 3.5 城主 清洲藩主松平忠吉の付家老小笠原吉次入城。忠吉没後尾張藩主徳川義直の付家老平岩親吉が入城したが嗣子なく成瀬正成が入り美濃今尾藩の竹腰家とともに尾張藩を支えた。和歌山藩の安藤、水野家、水戸藩の中山家が「五家」と称された。維新に成瀬家はじめ「五家」は念願の立藩を果たす。犬山城は全国的にめずらしく成瀬家が所有。
名古屋 愛知県名古屋市中区本丸 徳川慶勝(よしかつ) 御三家 61.9 城主 家康の四男松平忠吉が立藩。病没した為九男義直を甲府から移封。最初清洲に入城したが地形の問題から名古屋に築城。義直は家康の下で養育され没後の名古屋に常住、成瀬正成、竹腰正信が付家老として幕末まで舵取りを担った。義直は林羅山の薫陶を受け儒学を信奉奨励した。次の光友が藩政を確立、厳しいキリシタン弾圧を実施した。又木曽谷を支配し山林収入による財政の強化を図った。継友の時将軍後継問題が起ったが紀伊藩に取られた為吉宗への反発強く、次の宗春は質素倹約を旨とする享保の改革に抵抗開放経済政策を進めて抵抗した為隠居。次の宗勝、宗睦は倹約令の徹底、庄内川治水工事や新田開発に努めた。一橋家、将軍家からの後継が送込まれた上、慶勝の時将軍後継問題等一橋派に与した為安政大獄の嵐で隠居させられる等、幕府に反感もあり戊辰時、勤王恭順。
小川 愛知県知多郡東浦町 譜代 城主 於大の方の縁者の水野分長、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の役の軍功で召し出され立藩したが。新城へ転封廃藩。
清洲 愛知県西春日郡清洲町 三家 城主 織田信雄、福島正則後家康の四男忠吉が入封立藩。没後徳川義直が継いたが家康の命で名古屋に移築、廃藩
黒田 愛知県葉栗郡木曽川町 外様 城主 秀吉の直臣一柳直盛、兄直末戦死後黒田に居城立藩。関ヶ原の役で家康に属し軍功たて加増神戸に転封、廃藩。
美濃 岩村 岐阜県恵那郡岩村町城山 松平乗命(のりよし) 譜代 3 城主 松平家乗入城立藩。転封後丹羽氏信が入封,氏音の時藩政改革で騒動が起き、その咎で高柳に移封。松平氏が再入封、吉宗に抜擢され老中として幕政に参画した。最後の乘喬は陸軍奉行を務めたが戊辰時新政府軍に参陣
高富 岐阜県山県郡高富町 本庄道美(みちよし) 譜代 1 陣屋 綱吉の小姓、本庄道章取り立てられ立藩。所領分散等で財政は逼迫、植林、倹約を勧めるが改善せず。一揆起きる
苗木 岐阜県中津川市苗木字櫓下 遠山友禄(よもよし) 外様 1 城主 遠山友政、関ヶ原の役の軍功で復帰立藩。その後新田開発、節約、人員整理等財政改革に取り組んだ。幕末、友禄は若年寄として幕政で活躍、また平田派国学に心酔し守旧派を処断、藩政では廃仏毀釈・神葬改宗の断行をさせた。
大垣 岐阜県大垣市郭町 戸田氏共(うじたか) 譜代 10 城主 石川泰通立藩。松平忠良、岡部長盛、松平定綱氏の後戸田氏鉄が入封し以後明治まで在藩した。氏鉄は島原の乱の鎮圧で戦功をあげ、又新田開発、農耕法の改善、治山治水等積極的に行った。子氏信は譜代藩の藩法として最も整備された定帳を作成した。その後財政は困窮しだし家臣を整理する家中改革、倹約令の公布、領民から多額の調逹金等で再建を図った。しかし財政は更に窮迫し幕末、小原鉄心を登用し藩政、軍制改革等財政整理を断行した。禁門の変、長州征伐、鳥羽伏見の戦いに幕軍として戦功たてたが鉄心の説得で勤王に統一、新政府軍の先鋒で参陣。
野村 岐阜県揖斐郡大野町 戸田氏良(うじよし) 譜代 1 陣屋 織田信長の弟有楽斎の子長孝、関ヶ原の役で軍功たて立藩。が嗣子なく断絶。明治に戸田氏良が陣屋を移築立藩
郡上 岐阜県郡上郡八幡町 青山幸宣(ゆきよし) 譜代 4.8 城主 遠藤慶隆が旧領に復帰入城。井上、金森氏入封後金森頼錦の時財政窮乏から年貢徴収法を変えようとして農民の抵抗による宝暦騒動が起き領地没収。青山氏が明治まで在藩。戊辰時勤王方を表明したが裏で佐幕方に派兵。
加納 岐阜県岐阜市加納丸の内 永井尚服(なおこと) 譜代 3.2 城主 家康は大阪方への備えの地として加納に築城、信任厚い奥平信昌が入城立藩。しかし名古屋城の完成で地位も低下。嗣子続かず断絶、大久保忠職後戸田松平光重が入封し五人組を整備して年貢増収の円滑化を図った。つぎに入封した安藤信友は大阪城代、老中で活躍したが後継者の行跡悪く転封、永井氏が入封し明治まで在封した。歴代藩主は幕政の要職で活躍、最後の尚服も寺社奉行を経て若年寄に任ぜられた。
今尾 岐阜県平田町 竹腰正旧(まさひさ) 譜代 3 陣屋 市橋長勝後尾張藩付家老竹腰正信領有、今尾城を居城。しかし陪臣の為立藩出来なかったが明治元年に藩主に。
小原 岐阜県加茂市白川町 譜代 城主 遠藤慶隆は小牧長久手の戦いで織田信雄に組み、郡上を追われ当地を領有。関が原で軍功たて郡上に復帰、廃藩。
徳野 岐阜県可児市徳野南 外様 陣屋 平岡頼勝は関が原で小早川秀秋を東軍に味方させた軍功で立藩。その後家督相続争いから所領没収、廃藩。
岐阜県関市 外様 陣屋 大島光義、関が原の役で子供が西軍に組んだ罪を自らの軍功で償い加増立藩。しかし相続時万石以下となり旗本に
上有知 岐阜県美濃市小倉山 外様 城主 佐藤秀方除封後金森長近入城立藩。養子可重が高山の藩主に、上有知は三男長光に分与したが嗣子なく廃藩。
本江 岐阜県羽島市 譜代 陣屋 小早川秀秋の家老稲葉正成(夫人春日局)、関ヶ原の軍功で立藩。松平忠昌の家老として糸魚川に所領移領、廃藩。
高松(松ノ木) 岐阜県海津郡海津町 外様 城主 徳永寿昌、高松城を居城としたが関ヶ原の役で高須城を攻め落す等軍功たて加増。高須に居城を移す。廃藩。
高須 岐阜県海津郡海津町 家門 陣屋 城主高木盛兼、関ヶ原の役で徳永寿昌に攻め落され徳永氏立藩。嫡男昌重、大阪城石垣工事懈怠の咎で所領没収幕領後小笠原貞信再立藩。だが木曽三川の水害に悩まされ所替え希望し転封、尾張徳川光友の次男松平義行再々立藩。尾張藩の支藩となり今尾藩とともに尾張の防衛拠点となった。以降宗家との間で互いの藩主のやりとりがあった。幕末義建の七男容保が会津藩主に九男定敬が桑名藩主になった。
多良 岐阜県養老郡上石津町 外様 城主 関一政領有居城とす。関ヶ原の役で徳川方に寝返り、井伊家支配下で軍功たて父盛信の旧領亀山に転封、廃藩。
青野 岐阜県大垣市青野町 譜代 陣屋 稲葉正休、若年寄に昇進し加増立藩。だが江戸城中で大老堀田正俊を刺殺、自らも殺害され絶家、廃藩。
曽根 岐阜県大垣市曽根 譜代 城主 西尾光教領有居城とす。関ヶ原の役で岐阜城落城、更に大垣城明け渡しに貢献した。戦後加増うけ転封、廃藩。
黒野 岐阜県揖斐郡大野町 外様 城主 府中城主加藤光泰、朝鮮の役の帰国途上で急死。嫡男貞泰黒野に移封立藩。関ヶ原で東軍に寝返り、井伊家支配下で宇喜多秀家を攻撃軍功たて加増転封、廃藩。
大垣新田(野村) 岐阜県揖斐郡大野町 譜代 陣屋 大垣藩主氏鉄の次男氏経分与受ける。氏成の時更に分与受け立藩。氏良の時野村に分与され陣屋を移した。
揖斐 岐阜県揖斐郡大野町 譜代 城主 西尾光教、関ヶ原の役で岐阜城攻撃、大垣城明け渡しに貢献、加増立藩。養子嘉教が相続するも嗣子なく絶家廃藩
清水 岐阜県揖斐郡揖斐川町 外様 城主 稲葉通重、関ヶ原の役で西軍に与したが、決戦の直前に降伏し井伊直政の尽力で安堵された。後狼藉事件で除封。
飛騨 高山 岐阜県高山市城山 外様 城主 金森長近入封立藩。関ヶ原の役で軍功たて加増、長近は上有知、飛騨は可重に。重頼の時鉱山開発、山林開発に注力、財政は恵れた。また江戸大火の時桧一千本を献上する等し側用人に抜擢されたが翌年免職。転封後直轄領
越後 与板 新潟県三島郡与板町 井伊直安(なおやす) 譜代 2 城主格 長岡藩主牧野忠成の次男康成に分与立藩。新田開発と人員削減等実施したが財政窮乏は続く。桂昌院の弟本庄宗資の子康重が後継、転封。幕領後井伊直規入封。幕末、長州征伐に出兵するも戊辰時恭順、旧幕軍の攻撃受ける。
新発田 新潟県新発田市大手町 溝口直正(なおまさ) 外様 10 城主 溝口秀勝立藩。秀吉後も外様ながら明治まで在藩す。総検地、新田開発、港からの運上金で藩財政を維持したが江戸城普請役で陰り。更に大火で城下が焼失し財政は破綻状況に陥った為家中からの借り上げ、倹約令を実施する一方新田開発の為阿賀野川流域、福島潟の干拓を進めた。ただこれら治水工事で信濃川と阿賀野川が分流し隣接する長岡藩と激しく対立。幕末、一時同盟軍についたが勤王の藩論を保ち、戊辰時新政府軍に参陣し会津を攻撃した
三日市 新潟県新発田市三日市 柳沢徳忠(のりただ) 譜代 1 陣屋 柳沢吉保の四男経隆、宗家甲府藩主吉里の大和郡山へ転封に伴い甲斐に分与分を当地に封知立藩。明治迄在藩
糸魚川(清崎) 新潟県糸魚川市横町 松平直静(なおやす) 家門 1 陣屋 福嶋、高田藩の城代が入城したが松平光長除封時城は破却。有馬氏、本多氏転封後越前松平直之が領有、定府大名で清崎に陣屋を構え郡代支配に。戊辰時新政府軍に多くの助郷人夫を提供し、出兵はなかった。
三根山(峰岡) 新潟県西蒲原郡巻町峰岡 牧野忠泰(ただひろ) 譜代 1.1 陣屋 牧野定成六千石分与され寄合旗本に。幕末、忠泰の時高直しで立藩。戊辰戦争時領地に赴いて戦禍から領民守る。
長岡 新潟県長岡市場内町 牧野忠毅(ただかつ) 譜代 2.4 城主 堀直寄立藩。転封後牧野忠成が入封。城下の整備、人材の登用等藩政に尽力。その後の藩主も質素倹約、学問の奨励、新田の開発に努めた。忠精は京都所司代、老中に昇進し外国船の蝦夷地来襲の対応と処置を行い、又藩政では新川開墾、西川底樋伏込の工事を成功させ大規模な新田開発を可能にした。幕末、忠雅は幕閣に列したが藩財政は破綻、改革の為河井継之助を登用。郡制改法や兵制改革、特に軍備近代化を進めた。戊辰時中立の立場をとったが新政府側との談判決裂、激烈な北越戦争に突入、一進一退後落城。継之助没す。会津で抗戦も降伏。謹慎す。
村松(安田) 新潟県中蒲原郡村松町 堀直弘(なおひろ) 外様 3 城主格 堀直時、安田に立藩。直吉の時領地替えで村松に。直央の時殖産興業を図り専売制を導入する等財政再建に取組んだ。戊辰戦争で同盟軍に加盟敗退逃亡。藩内の恭順派は先代藩主の異母弟擁立、会津攻撃の先鋒で汚名返上
椎谷 新潟県柏崎市椎谷 堀之美(ゆきよし) 譜代扱 1 陣屋 堀直之、関ヶ原で軍功たて知行を得る。その後加増受け上総苅谷、更に八幡に立藩。直宥の時領地替えで椎谷藩を立藩した。直意の時、蔵米競売で一揆が起き藩主隠居、他家からの嗣立等の処分を受ける。戊辰の時激戦地に
村上 新潟県村上市村上本町 内藤信美(のぶよし) 譜代 5 城主 村上義明立藩したが家中騒動の咎で除封。堀直寄入封し城の改築拡張、産業の奨励等藩体制を整備。しかし嗣子続かず除封収公さる。その後、譜代大名の領地となり、本多、松平氏の総検地、新田開発で藩体制が充実。そして本多、松平、間部氏と続き藩主が定着する。幕末、意見対立の中、新政府軍に主戦派抵抗敗退。藩主自害。恭順す
高田 新潟県上越市 榊原政敬(まさたか) 譜代 15 城主 松平忠輝、福嶋城を高田に移し立藩。城は13外様の「越後御普請」。忠輝が大坂の陣での怠慢を咎められ除封後は小藩分立策がとられた。次に酒井氏後松平忠昌、松平光長が入封、新田開発と殖産興業により財政は充実した。しかし跡目騒動で将軍綱吉の怒りを買い除封。幕領後稲葉正通、戸田忠真、久松松平定重、榊原政永が姫路より入封。その間財政は大地震、災害、飢饉で逼迫、政令は人材の登用、倹約励行、殖産興業、温泉開発等は図った。戊辰時藩は勤王佐幕で分裂、一部藩士神木隊が迷走したが城を開放し恭順。新政府軍に従軍、越後・会津で戦った。
黒川 新潟県北蒲原郡黒川村 柳沢光邦(みつくに) 譜代 1 陣屋 柳沢吉保の四男経隆、宗家甲府藩主吉里の大和郡山へ転封に伴い甲斐に分与分を当地に封知立藩。明治迄在藩
沢海 新潟県中蒲原郡横越町沢海 外様 城主 溝口秀勝の次男善勝、分封受け立藩。養子政親、酒乱の為実家の加藤家に藩主交替願うも幕府から領地没収廃藩
三条 新潟県三条市本町 譜代 城主 堀秀治の家老堀直政が三条城代に。嫡男直清を入城支配す。しかし堀家の争いが起き除封。松平忠輝が支配し家老松平重勝が入城。忠輝除封後市橋長勝が入封立藩す。その後稲垣重綱が入封したが刈谷に転封廃藩。幕府領
蔵王 新潟県長岡市西蔵王 譜代 城主 堀親良立藩。病にかかり所領の一部を鶴千代に譲ったが夭逝、嗣子なく領地収公廃藩。親良は真岡、烏山の藩主に
藤井 新潟県柏崎市藤井 譜代 城主 稲垣重綱、大阪の陣で軍功たて加増、伊勢崎から移封立藩。更に昇進し三条、刈谷へ加増転封。当藩廃藩。
坂戸 新潟県南魚沼郡六日町 外様 城主 堀直政の次男直寄入城立藩。蔵王堂城主堀親良が去った後鶴千代を補佐し両藩の政務を執る。兄直清と宗家の家老職をめぐり対立。直寄が勝訴したが宗家除封、直清所領没収。直寄も所領収公されたが、後に信濃飯山に転封。
福嶋 新潟県上越市港町二丁目 家門 陣屋 堀秀治の家老堀直政は外様の主家の安泰を保つ為春日山城を廃し直江津の東に福嶋城を築城した。しかし直政没後家老職の後継争いが兄弟で起き堀家除封となった。後に入封した松平忠輝は水難を嫌い高田城を築城。廃藩
春日山 新潟県上越市中屋敷 外様 城主 堀秀治入城立藩。嗣子忠俊の時福嶋城を築城、春日山城は廃城、廃藩。
長峯 新潟県中頸城軍吉川町 譜代 城主 牧野康成の嫡男忠成、秀忠の偏諱をうけ駿河守に任ず。大阪の陣で軍功たて入城立藩。長岡に転封、廃藩
高柳 新潟県新井市高柳 譜代 陣屋 岩村藩主丹羽氏音、渦中騒動の咎で没収。が先祖の功績で移封立藩。嫡男薫氏は大阪定番となり領地替え、廃藩
越中 富山 富山県富山市本丸 前田利同(としあつ) 外様 10 城主 佐々成政後前田氏が領有。前田利常、前田領分割、次男利次百塚築城断念し富山城に入城冨山藩を立藩。城の大改修と城下の整備、新田開発を推進。飛騨藩との境界をめぐる紛争発生。家臣過多から当初より財政は窮迫し家臣の整備や特産の”反魂丹”等の富山売薬の保護統制を徹底した。しかしその後日光廟の修繕、飛騨騒動の鎮圧、神通川の洪水等で財政は困窮、倹約や文武の奨励を行う一方殖産振興、売薬業の発達を図った。利保は本草学者としても知られる。戊辰時、新政府の命で長岡出兵。又、神仏分離令のもと合寺令をだし過激な廃寺廃仏を進めた
百塚 富山県富山市百塚 外様 陣屋 前田利常、次男利次に分知立藩。はじめ百塚山に築城予定であったが費用大で断念、富山城に入城し百塚藩廃藩
能登 西谷 石川県羽咋郡 譜代 陣屋 水野勝成、福島正則の改易で福山藩に入封、が嗣子なく没収。ひ孫の勝長に名跡つがせ西谷に立藩。後転封廃藩
下村 石川県鹿島郡田鶴浜町 譜代 陣屋 高遠藩主島居忠則、家臣の不行責で自害。遺領没収されたが先祖の元忠の勲功から嫡男忠英立藩。後加増転封
加賀 金沢 石川県金沢市丸の内 前田慶寧(よしやす) 外様 102.2 城主 前田利家,賤ヶ嶽で秀吉に味方し金沢入城。関が原では嫡男利家、家康に属従し加増受け大大名に。利常の時城壁修築等で幕府より嫌疑を受け危機に立たされたが懸命の弁明と徳川家との縁を深め乗り切る。その時領地を金沢、富山、大聖寺、小松に分割す。隠退後も画期的農政改革”改作法”を実施し藩政の基礎を確立した。次の綱紀は保科正之の娘を迎え更に徳川家との絆を深め、藩主の権威を高める一方産業振興、凶作対策等実施し藩政の安定、学問・芸術の造詣を深めた。その後家督相続争い”加賀騒動”で非常事態に直面したが切り抜けた。しかし財政窮乏は続き藩札の発行や重農主義政策の実行等対策は実らなかった。将軍家と近い関係から藩風は保守的であったが慶寧は勤王論に共感し禁門の変の時退京謹慎、処罰を受けた。戊辰時佐幕派として終始し、戦費と出兵を負担した。
大聖寺 石川県加賀市大聖寺八間道 前田利益(とします) 外様 10 城主 前田領分割の時、三男利治立藩。九谷焼党の産業育成に尽力。その後藩主が宗家から続いた為自主性を欠いた
野々市 石川県石川郡野々市町 外様 陣屋 土方雄久、前田利長と丹羽長重との抗争調停の功で立藩。雄重の時領地を能登に移され菊多に陣屋を。廃藩。
小松 石川県小松市丸の内 外様 城主 丹羽長重、上杉討伐に遅れ常陸古渡に転封。前田利常、前田領を分割し自らの隠居領として立藩。没後宗家に吸収
越前 丸岡 福井県坂井郡丸岡町霞町 有馬道純(みちずみ) 譜代 5 城主 今村盛次が権力闘争で流罪となり本多成重が松平家付家老として入封。忠直の配流後藩主となったが重益の時重臣間の争いに幕府が介入、行状咎められ除封。有馬清純入封するも財政は逼迫し一揆も発生した。幕末道純は老中として国事に奔走、領内には海防の砲台を築き、洋式砲術を導入した。戊辰時逸早く恭順し新政府軍に参陣した。
勝山 福井県勝山市本町 小笠原長守(ながもり) 譜代 2.2 城主 秀康の五男直基が入封。弟直良後天領となったが小笠原貞信が入封し藩が確立。最後の藩主長守は煙草、生糸の生産販売を促進近代勝山産業発展の基礎となる。、維新時は京都の警備、新政府への恭順と体勢に順応した
大野 福井県大野市城町 土井利恒(としつね) 譜代 4 城主 織田、土屋、小栗氏、結城秀康の子松平直政、弟直基、弟直良、そして子直明とめまぐるしく藩主が交替後、土井利勝の四男利房が入封、土井氏は城下の整備、国産奨励、洋楽振興を図り、又樺太の屯田開拓の許可を得る等北辺開拓・防衛の第一線で活躍。最後の藩主利恒は反政府軍、榎本武揚の征討作戦に出兵し五稜郭の戦いで活躍した
鯖江 福井県鯖江市本町 間部詮道(あきみち) 譜代 4 城主 間部詮房、徳川綱豊(六代将軍家宣)の寵愛を受け出世し高崎、村上藩主に。没後詮言が相続、越前に転封立藩。しかし陣屋建築に苦労。更に飢饉等で財政は困窮。詮勝は深い教養を持ち産物問屋を設け市を立てたり、産物会所を設置、又藩札を発行し財政再建を図った。更に幕閣に累進、老中になり築城を許可されたが実現はせず。又井伊直弼の片腕として諸外国との条約締結、安静の大獄を推進したが直弼と対立隠居。維新時恭順し戊辰戦争に参陣。
福井 福井県福井市大手三丁目 松平茂昭(もうあき) 家門 32 城主 関ヶ原の役後結城秀康が北の庄に入城。嫡男松平忠直の時藩を分割しそうな高禄家老間の派閥抗争が勃発し家康
の裁決を仰ぐ。更に大阪夏の陣で味方苦戦を傍観、又その後の乱行で配流。子光長は高田へ、代わりに弟忠昌入
封し福井と改名した。次の光通の代で藩政は整備、我国最初の藩札を発行したが福井大火で城下は灰塵とかし幕府
より復興金を借用。その後も石高の半減や一揆、大飢饉の発生に対し特産の紙・繭玉・鎌等の専売政策を採ったが
改善しなかった。そして慶永が相続、人材登用し改革に着手し倹約の奨励、借米、財政整理、殖産競業策を進めた。
幕末、尊王攘夷論から橋本左内ら改革派の意見を容れ開国貿易論に転換。薩摩、宇和島、土佐藩らと幕政の大改革
をめざしたが一橋慶喜将軍後継争いで井伊大老に敗れ隠居謹慎。戊辰時新政府に恭順し北越、会津戦争に出陣。
松岡 福井県吉田郡松岡町 家門 城主 福井藩主松平光通の次男昌勝、分与立藩。宗家との繋がり強く宗昌の時、宗家吉邦死去により福井藩主となる廃藩
木本 福井県大野市木本 家門 城主 秀康の六男直良、春日山城を築城し立藩。その後加増受け勝山に転封、藩は宗家に編入、廃藩。
吉江 福井県鯖江市吉江町 家門 陣屋 秀康の次男松平忠昌の子光通、相続時遺領を弟昌親に分与立藩。しかし光通死去により宗家を継ぎ、当藩は廃藩
葛野 福井県丹生郡朝日村 家門 陣屋 和歌山藩主徳川光貞の三男頼方(後の吉宗)立藩。しかし兄の病没により宗家を継ぎ廃藩。その後八代将軍に。
高森 福井県武生市高森 譜代 陣屋 光貞の次男頼職立藩。和歌山藩主綱教の死去により宗家継承。本庄宗長が2万石で立藩したが嗣子続かず除封。
敦賀(鞠山) 福井県敦賀市鞠山 譜代 陣屋 小浜藩主酒井忠直の次男忠稠、敦賀、近江高島に分与受け立藩。領内支配は本藩の小浜藩預りで陣屋のみ設置。忠香の頃直接支配が始まる。最後の忠経は藩名を鞠山藩としたが後本藩と合併、廃藩。
若狭 小浜 福井県小浜市城内 酒井忠禄(ただとみ) 譜代 10.3 城主 関が原の役後、京極高次が入封、小浜城築城。忠高、大阪の陣で軍功たて松江に転封。川越から酒井忠勝が入封。家光の信任厚く幕政の中心で活躍。家綱の時由比正雪らの慶安事件起きる。その後も隆盛が続き幕政の要職を歴任。又学問にも熱心で国学者伴信友、梅田雲浜等輩出した。しかし日光廟の普請等支出が嵩み財政は逼迫、領内で打ち壊しが発生した。幕末忠義は京都所司代として井伊直弼の腹心として条約勅許問題や将軍後継問題の処理に活躍したがに活躍したが公武周旋失態の罪で蟄居、鳥羽伏見の戦いで幕府軍として出兵、後降伏。奥羽討伐の先鋒として出兵。
伊勢 桑名 三重県桑名市吉之丸 松平定教(さだのり) 譜代 6 城主 本多忠勝入封、伊勢の玄関として水城を築城、又宿場としてもにぎわう。子忠政は大阪の陣で軍功たて姫路に転封(子忠刻が千姫の婿)。その後久松松平定勝が入封し、以来家門の大名が藩主に。定行は町屋用水を完成し水道を設置し船場町等開発した。次に弟松平定綱が入封、新田開発に注力。定重の時桑名大火、復興事業に当った郡代野村疑獄事件が発生し移封。奥平松平の時代、木曽三川の治水工事を薩摩藩に命じ多大の犠牲で完成した。最後に久松松平氏が再封、幕末高須家からの養子定敬は京都所司代として兄容保と京都に軽微にあたる。鳥羽伏見の戦い幕軍の中心として戦い戊辰時、柏崎で挙兵し東北を転戦、五稜郭に入る。留守の桑名城は開城し、定敬も恭順。
長島 三重県桑名郡長島町西外面 増山正同(まさとも) 譜代 2 城主 関ヶ原後菅沼定仍が立藩したが膳所に転封廃藩。その後久松松平氏が再立藩したが忠光が発狂除封、増山正弥が入封、明治迄在封した。藩主のうち正賢は一流の文化人で特に花鳥画を描いた博物図鑑「虫類絵巻」は有名。
菰野 三重県三重郡菰野町 土方雄志(かつゆき) 外様 1.1 陣屋 犬山城主土方雄氏、家康の嫌疑うけ佐竹氏の許で蟄居。関ヶ原後秀忠に仕え復帰立藩。以後明治まで13代在封。
津(藤堂) 三重県津市丸の内 藤堂高潔(たかきよ) 外様 32.3 城主 関ヶ原後、冨田信高が復帰後転封し藤堂高虎が伊賀も領有し入城。平時の津城、有事の上野城として大修築を行い、城下の町割りを整備した。更に大坂の陣の軍功で加増、大大名になる。津藩独特のものに無足人と忍び衆があった。高虎没後新田開発、問屋株の統制等努めたが日光霊廟、富士山爆発による災害復旧等度重なる手伝い普請から藩財政は窮乏し、更に天災・凶作に見舞われ農村は疲弊、寛政の大一揆も発生。高兌は窮民救済の義倉を設置し植林・養蚕を奨励、藩校創設し文武を奨励した。幕末、高猷は連年の凶作、地震で財政は極限に。藩政は幕府の信頼を得て公武合体、尊王佐幕を唱えたが鳥羽伏見の戦いで一転して新政府に味方し幕軍敗北の因をつくり戊辰時転戦した。
久居 三重県久居市西鷹跡町 藤堂高邦(たかくに) 外様 5.3 城主格 藤堂高虎没後次男高次が相続、支藩設置を願い許可。嫡男高久の時弟高通に分与立藩。以後宗家を支え明治へ。
神戸 三重県鈴鹿市神戸 本多忠貫(ただつら) 譜代 1.5 城主 関ヶ原後一柳直盛が立藩したが後転封、城は破却され天領。その後石川総長が再立藩、居所を構えたが後転封。本多忠統が入封、綱吉小姓から若年寄に昇進、更に御勝手御用掛として財政難打開に努めた。又念願の築城を許された。荻生徂徠の高弟かつ茶人として表千家の流れをくむ。この文人大名としての好尚は代々の藩主に受け継がれた。
亀山 三重県亀山市本丸町 石川成之(しげゆき) 譜代 6 城主 関ヶ原御関一政が旧領に立藩、後転封。奥平松平忠明が入封するも大阪へ。幕領後譜代の三宅、本多、石川、板倉、大給松平氏そして板倉、石川氏が再封し定着。総純の時甲斐の川普請助役の為農民に御用金を課し、更に御用商人の画策による検地、米の買占めに反対する全藩挙げての一揆発生。幕末、勤王・佐幕の激しい対立まとめ勤王に
八田(東阿倉川) 三重県四日市市東阿倉川 譜代 陣屋 吉宗の側用人加納久通、上総に加増うけ立藩。後継の久堅、久周も若年寄に任ぜらる。久儔の時一宮に陣屋を移す
西条(南林崎) 三重県鈴鹿市南林崎 譜代 陣屋 吉宗の側用人、有馬氏倫上総市原他に加増受け立藩。氏恕の時陣屋を上総五井に移し五井藩を立藩。廃藩。
上野 三重県安芸郡河芸町 外様 城主 分部光嘉、伊勢飯野他を領す。関ヶ原の役で冨田氏と津城を守り安芸郡に加増立藩。子光信の時大溝に転封廃藩。
三重県安芸郡芸濃町 外様 城主 織田信包の嫡男の信重家康に味方し所領安堵。弟が遺言で父の遺領相続。これを家康に訴えたことを咎められ除封。
雲出 三重県津市雲出町 譜代 城主 城主蒔田広定、関ヶ原で西軍に味方し高野山へ、除封。戦後浅野氏に救われ所領安堵されたが後浅尾に転封廃藩。
岩手 三重県度会郡玉城町 外様 城主 秀吉のおとぎ衆城主稲葉道通、関ヶ原で家康に属し鳥羽城を攻めるなど軍功たて加増、旧領田丸城に移る。廃藩。
田丸 三重県度会郡玉城町田丸 譜代 城主 稲葉道通、旧領田丸城を居城として立藩したが紀通の時中島に転封廃藩。後和歌山藩領となり家老久野氏の居城。
松坂 三重県松坂市殿町 外様 城主 城主古田重勝は関ヶ原で家康に味方し加増安堵。没後浜田へ転封廃藩。後和歌山藩領に合併、商人町として発展
伊賀 上野 三重県上野市丸の内 外様 城主 上野城主筒井定次は関が原後本領安堵されたが秀頼側と通じていた事や、家臣間の抗争が家康に知られ死を命じられ断絶。家康の信任厚い藤堂高虎が入封、上野城、津城の大修築を実施、特に上野城は大阪方に備える為日本一の高石垣を築いたが暴風雨で倒壊。豊臣氏も滅亡し上野城の存在価値も薄れ再建せず城代家老支配に。
梁瀬 三重県名張市梁瀬 譜代 陣屋 松倉重政は関が原後も本領安堵。筒井家が改易された為所領返納したが先の軍功により二見五条に転封、廃藩。
名張 三重県名張市丸之内 外様 陣屋 高虎が伊賀を領した時城代を配したが一国一城令で廃城。その後養子で丹羽長秀の三男藤堂高吉が所領替えで今治から名張に入城、名張藤堂家が成立。明治まで在藩。当家は本藩津藤堂家の陪臣であり正式の大名ではない。
志摩 鳥羽 三重県鳥羽市鳥羽 稲垣長敬(ながひろ) 譜代 城主 水軍の将九鬼氏は関が原で親子で敵味方にわかれた。戦後子守隆は父嘉隆の所領も領有したが没後跡目相続争いが起き三田、綾部の内陸へ移封。内藤忠重が入封し近世城郭に改築したが家綱死去による大法会で宮津藩主永井氏を斬殺、断絶没収。幕領後土井、板倉、戸田松平氏と交替し稲垣氏が入封定着した。立地条件から捕鯨、ぼら、鮑等漁業生産を保護し藩財源に。幕末、鳥羽伏見で幕府方に参陣し朝敵となるも、多大な戦費を負担し許される。
近江 膳所 滋賀県大津市本丸町地先 本多康穣(やすしげ) 譜代 6 城主 戸田一西、関ヶ原の軍功で大津に入封、城は落城、再築した膳所城に入城立藩。一西は民政にも注力し、しじみを放流漁民を保護した。嫡男氏鉄、大阪の陣で軍功たて転封。後本多、菅沼、石川氏入転封、再度本多氏が入封定着す。幕末、勤王・佐幕派の対立激しく一時幕府の嫌疑から勤王派を弾圧したが鳥羽伏見で朝廷側につき桑名藩を攻撃。
大溝 滋賀県高島郡高島町勝野 分部光謙(みつのり) 外様 2 陣屋 織田信澄が築城。本能寺の変時滅ぼされ以後丹羽、加藤、生駒、京極氏が入城。その後分部光信が入封立藩。光信は普請奉行として活躍、光実は藩校修身堂を創設、士風刷新を図った。北方探検の旗本近藤重蔵を預っている。
水口 滋賀県甲賀郡水口町本丸 加藤明実(あきざね) 譜代 2.5 城主 中束正家、関ヶ原で西軍に与し除封。その後将軍上洛時の御茶屋として築城したが加藤明成の嫡男明友が入封立藩。後転封し鳥居氏をはさんで再度加藤氏が入封。甲賀郡内で天保三上山一揆が発生苦慮す。幕末恭順。
西大路(仁正寺) 滋賀県蒲生郡日野町西大路 市橋長和(ながかず) 外様 1.8 陣屋 三条藩主市橋長勝、嗣子なく領地収公。甥長政が名跡を相続、蒲生氏郷の居城に立藩。長政は多賀大社の社殿造営の奉行、西国筋直轄領の郡奉行等活躍。後年、高島秋帆に砲術を学ぶ。戊辰時新政府軍の兵糧弾薬輸送に当る
山上 滋賀県神崎郡永源寺町山上 稲垣太清(もときよ) 譜代 1.3 陣屋 上野伊勢崎に領有した稲垣長茂の三男重太が分家。子重定加増うけ、後近江に国替え立藩。寛政六年陣屋構築。
彦根 滋賀県彦根市金亀町 井伊直憲(なおのり) 譜代 25 城主 関が原後家康の信任厚い井伊直政は佐和山に入場立藩。家康の命で彦根に築城、西国、京の抑えとした。直孝は藩政の諸制度の基礎を固める一方、秀忠、家光、家綱三代の将軍に仕えその後の藩主の多くは老中、大老となり幕政の中心を担った。直興は日光東照宮修造総奉行を務めまた領民参加の弁天堂、欅御殿を建築した。直中の時財政が苦しくなり倹約令を施行する一方、浜縮緬、高宮布等を保護育成、専売仕法を拡大し経済利潤追求しだした。又藩校創設し文武育成に当たった。幕末、直弼は開国を主張し米国はじめ諸外国と条約を締結、内政では将軍後継問題で一橋派と対立、外交政策を絡めて起った攘夷倒幕運動を徹底的に弾圧、安政の大獄である。直弼は桜田門で暗殺、彦根藩は減封、京都守護職の家格も奪われた。鳥羽伏見の時から新政府軍に従事しさらに関東東北に転戦。
宮川 滋賀県長浜市 堀田正養(まさやす) 譜代 1.3 陣屋 堀田正信は松平信綱の専横に憤慨、無断帰国し除封。子正休は上野吉井に封じられたが移封うけ立藩。正陳は若年寄に昇進加増。正民以降嗣子がなく戸田、本多、岩城氏から養子を迎える。佐幕色の強い藩だが周囲を伺い対応
朝日山 滋賀県長浜市宮司町 水野忠弘(ただひろ) 譜代 5 城主 水野忠広は戊辰時奥羽越列藩同盟に加盟し転戦、降伏した。謹慎後山形藩廃藩に伴い領地を移され朝日山に立藩。
小室 滋賀県東浅井郡浅井町小室 譜代 陣屋 小堀遠州は備中から移封立藩。正峯は伏見奉行、若年寄を歴任したが子政方が伏見奉行の時不正により免職廃藩
長浜 滋賀県長浜市公園町 譜代 城主 秀吉築城後柴田勝豊、山内一豊、石田三成が領有、関が原後内藤信成が入場立藩。信正の時高槻に転封、廃藩。
佐和山 滋賀県彦根市古沢町 譜代 城主 関が原で三成敗北後、佐和山城は父正継が守っていたが討死。井伊直政が入城したが後彦根に築城し移る。
江州新田 滋賀県彦根市 譜代 陣屋 彦根藩主井伊直惟、弟直定の新田分与立藩したが後年直定が後継に決まり新田返却、廃藩。
山路 滋賀県彦根市 外様 陣屋 佐久間玄蕃の弟勝之は近江山路に領有、大阪の陣で加増立藩。勝茲の時病と偽って小姓を辞退、除封。
大森 滋賀県八日市市大森町 外様 陣屋 山形藩主最上義俊は家督騒動で幕府の処置を断り、所領没収の上蒲生郡に立藩。子義智若年で減封、交代寄合に
三上 滋賀県野洲郡野洲町三上 譜代 陣屋 郡上八幡城主遠藤常久、早世し断絶。叔父の胤親に名跡を相続させ常陸から国替えで立藩。後吉見に移し廃藩。
大津 滋賀県大津市浜大津 譜代 居城 京極高次、関ヶ原で家康に与し籠城したが西軍の攻撃受け開城。家康はこの抗戦を評価し加増転封。膳所に築城
堅田 滋賀県大津市堅田 譜代 陣屋 堅田広澄除封され幕府領後堀田正高が入封立藩。正敦の時湯島聖堂再建の副奉行等活躍。旧領佐野に転封廃藩
高島 滋賀県高島郡高島町 外様 陣屋 佐久間玄蕃の弟安政、敗北後も家康に恩を受く。関ヶ原で家康に与し軍功たて加増立藩。大阪の陣でも軍功、転封。
朽木 滋賀県高島郡朽木村野尻 譜代 陣屋 朽木元綱、関ヶ原で東軍に寝返ったが事前の了解なく減封。家名は存続したが所領を兄弟に分与、旗本に。廃藩
大和 柳生 奈良県奈良市柳生町 柳生俊益(とします) 譜代 1 陣屋 柳生宗矩は関ケ原で諜報活動を認められ秀忠の兵法指南役に、更に千姫事件で実績を挙げ加増立藩。初代惣目付に就任。家光の信任厚く、島原の乱では一門、老中の上使を陳言。没後三厳、宗冬に分与した為旗本格になったが宗冬が家綱、綱吉の剣道師範役となり、再度諸侯に列す。次ぎの宗在に子なく養子相続となり剣抜の相伝は門人に。
芝村(戎重) 奈良県桜井市芝 織田長易(ながやす) 外様 1 陣屋 織田有楽斎、関ヶ原で加増受けた一部を四男長政に分与。四代長清は好学の藩主で藩校遷喬館を創建、学問を修めた。輔宜の時芝村への陣屋移転を実現。又大和の幕府領の預かり支配を。しかし年貢減免の訴え、強訴も発生。
小泉 奈良県大和郡山市小泉町 片桐貞篤(さだあつ) 外様 1.1 陣屋 片桐且元の弟、貞隆は関ヶ原後加増。大阪の陣の時大阪城を退去し茨木に帰城。所領安堵され陣屋を構え立藩。後の貞昌は小堀遠州の後継として将軍家茶道師範を勤めた他、幕府の土木、建築事業に貢献。明治まで在藩した。
柳本 奈良県天理市柳本 織田信及(のぶひろ) 外様 1 城主格 織田有楽斎、関ヶ原で加増受けた一部を五男尚長に分与、大泉から土豪柳本氏の城に陣屋を移し立藩。秀親の時綱吉葬儀の際加賀前田利昌に殺害されるも末期養子で改易逃れる。信陽は藩政改革を断行再建す、城主格に昇格
郡山 奈良県大和郡山市北郡山町 柳沢保申(やすのぶ) 譜代 15.1 城主 筒井順慶、羽柴秀長、増田長盛の城下。関ヶ原後一時廃城したが水野勝成、奥平松平忠明、本多政勝と大阪の陣の大和口先鋒で活躍した勇将が次々入封。政勝は藩政を整備し城下町は発展した。しかし政勝没後嫡流、庶流間の激しい家督争いが起き幕府の裁断で二分し治めたが結局双方転封さる。その後藤井松平信之、本多忠平が入封。大火や財政悪化で苦しんだが文運は興隆し、熊沢蕃山、細井平洲、林宗甫らが活躍した。そして柳沢吉里の入封で安定、禁裏守護と南都・京都の火消しの大役を任じた。吉里は儒学に造詣深く藩校を創設し教育に注力した。最後の保申は幕末京都警護や天誅組五条代官所襲撃事件、禁門の変の出兵と奮闘したが戊辰時は奥羽追討軍に参陣。
田原本 奈良県磯城郡田原本町 平野長裕(ながひろ) 外様 1 陣屋 秀吉の家臣平野長泰、関ヶ原で活躍、嫡男長勝が旗本として陣屋を。最後の長裕が明治に加増うけ諸侯に列す。
高取 奈良県高市郡高取町 植村家壷(いえひろ) 譜代 2.5 城主 羽柴秀長は郡山城の詰城として破戒された高取城を重視し家臣本多利久を城主とした。本多氏は関ヶ原で家康に与し安堵され立藩。しかし嗣子続かず廃藩。幕府の大番頭植村家政が再立藩、明治まで在藩した。家長の時幕府の信任厚く、多くの幕府領を預かり又若年寄、老中に昇進。幕末、天誅組との武器提供の約束を反古した為来襲を受けたが撃退、鳥羽伏見では禁裏唐門を警衛、翌月には芝村藩と大和の代官支配地の取締りを新政府から命じらる。
櫛羅 奈良県御所市櫛羅 永井直哉(なおちか) 譜代 1 陣屋 丹後宮津藩主永井尚長、家綱の葬儀の際内藤忠勝に殺害され嗣子なく除封。だが弟直円に相続許され立藩。歴代大阪定番、大番頭等勤めたが直壮の時初めて櫛羅に陣屋を築いた。これまで新庄藩と言われてきたが櫛羅藩となる
興留 奈良県生駒郡斑鳩町興留 譜代 陣屋 古河藩主松平信之の次男信通分与うけ立藩。兄の古河藩主忠之は乱心を理由に領地収公されたが祖父の功績と家筋で信通は加増の上、宗家の名跡を相続。後移封され廃藩。信之は明石、郡山藩主後老中に就任し加増古河藩主に
竜田 奈良県生駒郡斑鳩町 外様 城主 片桐且元、関ヶ原後加増立藩。大阪の陣でも加増うけたが嗣子続かず廃藩。一族を旗本に取立てたが嗣子なく断絶。
松山(宇陀) 奈良県宇陀郡大宇陀町 外様 城主 福島正則の弟高晴は関ヶ原後伊勢長島から松山に立藩。高晴はわがままな行動多く、訴えた家臣を駿府城下で捕えた為所領没収に。その後織田信雄が領したが信武の時老臣を斬殺し自害、減封され子信休は柏原に転封、廃藩。
布施 奈良県北葛城郡新庄町 外様 城主 桑山重晴は和歌山城を一晴に譲る。関ヶ原後、一晴は和歌山から布施に移され立藩。没後弟一直が新庄に移す。
新庄 奈良県北葛城郡新庄町 外様 陣屋 桑山一直、布施から居所を移す。一尹の時家綱の法会の際公家衆の饗応掛を勤めたが不敬な振る舞いで除封。
御所 奈良県御所市 外様 陣屋 桑山重晴の次男元晴は関ヶ原の軍功で加増うけ立藩。没後貞晴継いだが嗣子なく弟への末期養子も許されず廃藩。
五条(二見五条) 奈良県五條市二見町 外様 城主 筒井順慶の重臣、伊賀梁瀬城主松倉重政は関ヶ原の軍功で二見五条に領地を与えられ新城を築いて立藩。大阪の陣でも軍功たて島原に加増転封、廃藩。天領となり代官所設置、幕末天誅組が襲撃、天誅組大和義挙の舞台となる。
紀伊 和歌山(紀州) 和歌山県和歌山市一番丁 徳川茂承(もちつぐ) 御三家 55.5 城主 秀長の城代、桑山重晴が居城。関ヶ原後浅野幸長が入封立藩したが大阪の陣の軍功で転封。家康の十男頼宣が入封し付家老安藤直次を田辺城、水野重央を新宮城に置いた。頼宣は土豪層も支配下に組入れ藩体制の確率と御三家の地位を築いたが産業の開発、土木工事の奨励、家臣団の増強による出費の増加等から財政は次第に窮乏した。又由井正雪の乱で疑いを受け10年間江戸に留め置かれた。その後も将軍家との婚礼や江戸屋敷の火災等で財政は逼迫。吉宗は財政再建すべく倹約や新田開発、殖産興業に努め借財の返済や蓄財も可能となった。その後も櫨、松の植林等に努める一方倹約と学問武芸を尊ぶ藩風となった。しかし治宝の時最大の農民一揆が勃発し多くの処罰者を出した。14代将軍も擁立したが鳥羽伏見で新政府への恭順を決定。大阪城守衛を辞退、奥羽討伐軍に出兵転戦
新宮 和歌山県新宮市丹鶴町 水野忠幹(ただもと) 譜代 3.5 城主 頼宣付家老水野重央、頼宣の転封に伴い新宮城主に。幕末、南紀派として井伊直弼と組み藩主慶福を14代将軍に擁立。この時一橋派との対立に開国問題が複雑に絡み、以降の幕政や幕藩体制に大きな禍根を残した。忠幹は度量もあり第二次長洲征伐で江戸隊の先鋒として芸州口の戦いで彦根、高田藩の大敗のあと孤軍奮戦す。慶応4年立藩。
田辺 和歌山県田辺市上屋敷町 安藤直裕(なおひろ) 譜代 3.8 城主 頼宣付家老安藤直次、頼宣の転封に伴い田辺城主に。第二次長州征伐の全軍総督、石州口の戦いに敗れるも将軍家茂の死去で休戦、面目保つ。慶応4年立藩。
山城 京都府京都市伏見区淀本町 稲葉正邦(まさくに) 譜代 10.2 城主 松平定綱、新城構築を命じられ初代藩主に。転封後、永井、石川、戸田、松平氏と譜代大名が入転封後稲葉氏が入封、定着す。稲葉氏は寺社奉行、京都所司代等幕府の要職に就き、守護職松平容保と洛中の警護にあたり、又慶喜の幕政改革に老中として参画したが鳥羽伏見では幕軍の入城を拒否、新政府軍に参陣し幕軍に打撃を与えた。
伏見 京都府京都市伏見区桃山町 譜代 城主 関ヶ原で炎上、復興し久松松平定勝入城立藩したが桑名転封、わずか10年で廃藩。家光将軍宣下式後、城は破却。
三牧 京都府久世郡久御山町 外様 陣屋 秀吉の家臣、津田信成は関ヶ原で家康に与し軍功たて本領安堵されたが、祇園での乱暴等で所領収公。廃藩。
長岡 京都府長岡京市 譜代 陣屋 永井直清、山城で加増うけ勝竜寺、後神足寺に陣屋を。地理的便利から京阪間の要務に。更に加増、高槻転封廃藩
丹後 峰山 京都府中郡峰山町吉原 京極高陳(たかのぶ) 譜代 1.1 陣屋 京極高知没後丹後三分割で高通立藩。高之の時、丹後縮緬を保護育成し藩財源とす。戊辰時山陰道鎮撫使に恭順
宮津 京都府宮津市鶴賀 本庄宗武(むねたけ) 譜代 7 城主 細川藤孝転封後、京極高知が入封。没後遺言で丹後国を三分割、嫡男高広が宮津を領有したが子高国の時藩政悪政を咎められ改易。天領後永井、阿部、奥平、青山氏と譜代大名の入転封が続き本庄松平氏で定着した。宗発の時財政は困窮、万人講と称する人頭税を課したが一揆起き廃止。又藩校礼譲館を創設、文武に力を入れた。宗発、宗秀は京都所司代、老中につき多難な幕政を担った。鳥羽伏見で幕府軍に加勢し朝敵の疑いを掛けられたが恭順
舞鶴(田辺) 京都府舞鶴市南田辺 牧野弼成(すけしげ) 譜代 3.5 城主 京極高知没後丹後三分割で高三立藩。後転封、牧野親成が入封、歴代藩主は寺社奉行等幕政を担った。節成は繭、楮、漆、藍等を専売、財政再建を試みたが失敗。幕末京都御所、将軍警護等にあたったが戊辰時は鎮撫使に開城
丹波 亀岡(亀山) 京都府亀岡市荒塚町 松平信正(のぶまさ) 譜代 5 城主 秀吉五奉行の一人前田玄以は三成の動静を家康に伝え本領安堵。子茂勝が八上移封、岡部長盛が入封。転封後大給松平、菅沼、藤井松平、久世、井上、青山氏と譜代大名の入転封後形原松平信岑入封定着。藩主の交替激しく更に領地の入り組みと飛地の複雑さで施政に一貫性が無かった。信道は奏者番兼寺社奉行に昇進、”領中刑律”を制定し安定した藩政の指針を示した。幕末、信正は佐幕藩として新政府に疑われ鎮撫使に攻撃された為恭順示す。
園部 京都府船井郡園部町小桜町 小出英尚(ふさなお) 外様 2.8 陣屋 小出吉親入封立藩。外様小藩ながら英貞、英持は奏者番、寺社奉行、若年寄に栄進。英タケの時天明の大飢饉の。で農民一揆が発生、領内への流入を防ぐ為篠山藩の応援を得て鎮圧。又藩校を創設し子弟の教育に注力した。英教はペリー来航で持論の開港拒絶を展開、財政では煙草の専売を進めた。戊辰時新政府に帰順し鎮撫使に従軍す
綾部 京都府綾部市上野町 九鬼隆備(たかとも) 外様 1.9 陣屋 水軍の将九鬼氏は関ヶ原御、嫡子守隆が鳥羽に入封したが、没後遺領争いから三男隆季が移封され立藩。隆寛は藩校を創設し子弟の文武教育に努力したが財政は危機的状況になり大規模な強訴が起った。老中田沼意次の子隆よしが後継したがその後の田沼政権の余波を受ける。九代隆都は農村復興に注力、綿・煙草・茶等商品作物の増産、社倉講の設立等行った。又講武所総裁に任ぜられた。幕末、隆備は京都警備等に当ったが戊辰時、逸早く帰順。
山家 京都府綾部市広瀬町城山 谷衛滋(もりしげ) 外様 1 陣屋 秀吉の家臣谷衛友、関ヶ原で家康に寝返り本領安堵し山家に立藩、明治まで在封す。幕末新政府軍にいち早く帰順
福知山 京都府福知山市内記 朽木為綱(もりつな) 譜代 3.2 城主 明智光秀の居城。関ヶ原後小野木重勝は除封、有馬豊氏が入封、過酷な検地を実行。その後岡部、稲葉、松平氏そして名族の朽木稙昌が入封定着。朽木氏は時代の変転を乗切り家光の小姓となった土浦藩主稙綱の子。稙昌はは石川流の武家茶人として聞こえ、代々の藩主も学術文化に優れた業績を残した。ただ他藩同様、財政は困窮し倹約令等改革を断行したが効果なく一揆が頻発した。。幕末、譜代として尊王攘夷の風潮の中過酷な仕打ちの耐えた。
篠山 兵庫県篠山市北新町 青山忠敏(ただゆき) 譜代 6 城主 波多野秀治の居城八上城に前田玄以が入城したが子茂勝が狂疾で除封。家康の庶子松平康重が入封、篠山城築城。転封後藤井松平、形原松平氏、そして青山忠朝が入封、明治まで在藩。青山氏は寺社奉行、老中と幕政を担う者多く在府が長い為藩政に関与せず年貢増徴に対する一揆、強訴が多発した。忠裕は青磁の”王地山焼”の藩窯を開き殖産に貢献した。幕末、譜代の立場と尊王攘夷の潮流に揺れたが鳥羽伏見の後無血開城し恭順を示した。
柏原 兵庫県氷上郡柏原町柏原 織田信親(のぶちか) 外様 2 城主 信長の弟信包、秀吉の下立藩。関ヶ原で西軍に与したが好運にも安堵されたが嗣子なく絶家廃藩。その後一族で織田信雄の系統の信休が入封、再立藩。儒学を中心とした文教政策に尽力。最後の信親は鳥羽伏見で朝廷側につく。
和泉 吉見 大阪府泉南郡田尻町吉見 遠藤胤城(たねき) 譜代 1.2 陣屋 三上藩主遠藤氏は野洲に陣屋を構えていたが、和泉吉見も加増うけ陣屋を置く。明治に便利さから藩庁を吉見に。
伯太 大阪府和泉市伯太町 渡辺章綱(あきつな) 譜代 1.3 陣屋 大庭寺藩主渡辺基綱、陣屋を伯太に移し立藩。基綱は利発温和で大阪定番を多年務めた。幕末、章綱の時世直し一揆の激発の一環として米価騰貴に対する打ち壊しが発生。又藩校を創設し朱子学を中心とした漢学が教授された。
岸和田 大阪府岸和田市岸城町 岡部長職(ながもと) 譜代 5.3 城主 城主小出吉政は関ヶ原で西軍に与したが、弟秀家が東軍に属した為旧領安堵。没後嫡男で出石藩主が相続したが後転封。松平康重、ついで家光の信任厚い岡部宣勝が和歌山藩の抑えとして入封。当初は新田開発の運上課役等で財政は豊かであったが次第に翳り、天災の続出による凶作から農民強訴が発生。その後の藩主も倹約令の徹底、藩校創設による文武の育成等藩政改革を行った。”ええじゃないか”運動も発生。幕末、勤王佐幕で二分したが勤王に纏め鳥羽伏見では新政府側に参陣した。最後の長職は司法大臣、子長景は文部大臣を歴任、政治家として活躍。
大庭寺 大阪府堺市 譜代 陣屋 槍の半蔵の子孫で将軍家綱の小姓渡辺吉綱は大坂定番に昇進、河内他に加増受け武蔵国野本藩立藩。嗣子続かず養子基綱相続、所領を近江に移され和泉国大庭寺に陣屋を構えるも後伯太に移築、廃藩。
陶器 大阪府堺市 外様 陣屋 岸和田藩主小出秀政の三男三尹は分与うけ立藩。しかし有興の時弟重昌を末期養子に願出るも間に合わず絶家。
谷川 大阪府泉南郡岬町 外様 陣屋 秀吉のお咄衆和歌山城主桑山重晴は一晴に家督を譲り谷川に隠居。没後清晴が谷川相続立藩するも勘気うけ廃藩。
河内 狭山 大阪府大阪狭山市狭山三丁目 北条氏恭(うじゆき) 外様 1 居城 北条氏盛、父氏規の遺領を受け立藩。氏彦の時、下級藩士の藩政改革運動、”狭山騒動”が発生、失敗。氏喬の時大塩平八郎の乱で大阪城の守備に。氏燕はロシア船の大阪湾侵入で堺に藩士派遣。戊辰時新政府軍として参戦。
丹南 大阪府松原市丹南三丁目 高木正喜(まさよし) 譜代 1 陣屋 高木正次、大坂定番に昇進し加増立藩。正弼の時”郷中騒動”の農民一揆発生、出仕を停止さるが藩を維持、明治へ
高安 大阪府八尾市 譜代 陣屋 関宿城主牧野親成は京都所司代に任ぜられ加増、陣屋を移し立藩。辞職後田辺に転封、廃藩。
大井 大阪府藤井寺市大井 譜代 陣屋 武蔵国野本藩の仮称。渡辺吉綱は大坂定番に昇進、加増うけ一時的に大井村に立藩。但し赴任時には野本に戻す。
西代 大阪府河内長野市 譜代 陣屋 膳所藩主本多泰将の弟忠恒、分与うけ立藩。忠統の時西代に陣屋を構える。若年寄に昇進し加増転封、廃藩。
摂津 麻田 大阪府豊中市蛍池中町 青木重義(しげよし) 外様 1 陣屋 信長の家臣、木一重は秀吉、秀頼に仕え大阪の陣の和議の使者として駿府に下向したが大阪城が落城、剃髪。だが家康に召抱えられ立藩し明治まで在封した。二代重兼は英明の誉れ高く文武を奨励し領民に仁政を施した。
高槻 大阪府高槻市城内町 永井直諒(なおまさ) 譜代 3.6 城主 高山右近の城、大阪夏の陣後内藤信正が立藩。次に土岐定義が入封し一国一城令で茨木城を廃城し高槻が城下町として整備。その後形原松平、岡部、形原松平氏が入転封し永井氏の入封で定着す。直清は幾内・西国の民政担当し初頭の幕政を担った。直期は財政再建年貢先納銀、租税率引上げをはかり、直進は藩校を創設し子弟の教育に努めた。幕末、直輝は京都警備に当ったが最後の直諒は激動期にあって日和見主義的態度で過ごす。
尼崎 兵庫県尼崎市北城内 桜井忠興(ただおき) 譜代 4 城主 建部政長、大坂の陣の軍功で加増立藩。転封後戸田氏鉄が入封し城下町を整備、ついで青山氏も新田開発、大庄屋制の設置、藩札の発行を実施。松平氏の時西宮、尼崎港を含む灘の村々を収公され財政は悪化、銀札の発行、鶏卵、名塩紙の専売制を目論んだが失敗。幕末、日和見していたが戊辰戦争で幕府軍が敗退、新政府軍に恭順。
三田 兵庫県三田市屋敷町 九鬼隆義(たかよし) 外様 3.6 城主 関が原後有真則頼が入封立藩。没後、嫡男豊氏に与えられ福知山藩と合併、廃藩。その後松平重直が入封し際率藩。転封後九鬼氏が入封、藩政の基礎をかためた。隆国の時、江戸城神田橋、常盤橋御門番を務めた功績で城主核に列せらる。維新時、諸藩に先駆け帰農を奉請し時局に対応。だが、激しい農民一揆が起り藩主への投石等混迷。
茨木 大阪府茨木市本町 外様 城主 片桐且元、貞隆兄弟が入城、且元移封後も貞隆が支配していたが大阪の陣後且元が死去、貞隆も転封し廃藩。
味舌 大阪府摂津市三島 譜代 陣屋 信長の弟、有楽斎が支配。秀吉の近侍するも没後、家康に随従し関が原で加増転封廃藩。有楽斎は茶道を親しむ。
中島 大阪府大阪市西淀川区 譜代 陣屋 伊勢国岩手の城主稲葉通通は関が原後田丸へ。大阪の陣後領地を中島に移封立藩したが、後福知山に転封廃藩。
大坂 大阪府大阪市中央区大阪城 外様 城主 関が原後家康は秀頼に存続を許したが、大坂の陣後松平忠明が入封、城下町の復興に尽力したが転封、直轄地に。
但馬 豊岡 兵庫県豊岡市京町神武山 京極高厚(たかあつ) 外様 1.5 陣屋 杉原長房は関ヶ原で西軍に与したが正室が浅野長政の娘とのことで本領安堵立藩。しかし嗣子続かず断絶。幕府領後京極高盛が再立藩。途中無嗣除封の危機や路線をめぐる確執から重臣の出奔が相次いだが杞柳生産の保護育成、行李流通の独占を図り財政再建に勉めて明治に繋ぐ。
出石 兵庫県出石郡出石町内町 仙石政固(まさかた) 外様 3 城主 小出吉政は関ヶ原で西軍に与したが一族が家康に属し軍功立てた為本領安堵立藩。吉政は父の遺領の岸和田藩を継ぎ嫡男吉英が相続するも、吉政の死で岸和田藩に。弟吉親に譲るも転封、再度吉英が入封した。しかし嗣子続かず出石小出家は断絶。この時藩札の引き換えを拒絶された領民の暴動が発生。次に藤井松平忠周入封するも若年寄となり転封、仙石政明が入封したが後継争い、内紛続発、脱藩者の生野の変の参加、その鎮圧出兵と多難な幕末
村岡 兵庫県美方郡村岡町 山名義路(よしみち) 外様 1.1 陣屋 交代寄合の山名義済は明治元年に高直しされ立藩。尊王海防論を上書。生野の変で朝命を受け出兵薩摩藩を援助
播磨 安志 兵庫県宍粟郡安富町 小笠原貞孚(さだちか) 譜代 1 陣屋 中津藩主小笠原長さと6才で死去没収。先祖の功により弟長興に名跡継がせ立藩。宗家小倉藩の支藩として明治に
姫路 兵庫県姫路市本町 酒井忠邦(ただくに) 譜代 15 城主 関ヶ原の軍功で家康の娘婿池田輝政が入封立藩。輝政は家康の信任厚く大天守を含む壮大なj築城と城下町を整備。光政の時幼少を理由に鳥取に転封、本多忠政が入封、西国探題職に補される。政勝の時転封になったが以後奥平松平、越前松平、榊原、越前松平、本多、榊原、越前松平、酒井氏と譜代や重臣達がめまぐるしく交代した。酒井氏は明治まで在封したが財政難に苦しめられ、倹約徹底、冥加銀講の貯蓄制度の創始、姫路木綿の専売等実施した。幕末藩主忠績は老中として将軍家茂を補佐したが藩内は尊王・佐幕派で分裂、尊王派が敗れ処罰された。しかし鳥羽伏見で敗れ朝敵となり鎮撫総督の追討を受け恭順開城、献金で家名は存続したが旧佐幕派が処罰された。
林田 兵庫県姫路市林田町 建部政世(まさよ) 外様 1 陣屋 尼崎郡代武部政長、大坂の陣の軍功で加増立藩。政宇の時寺社奉行に就任。戊辰時は新政府軍の姫路追討出兵。
三草 兵庫県加東郡杜町上三草 丹羽氏中(うじのり) 譜代 1 陣屋 越後高柳藩主丹羽薫氏、大坂定番に任じられ所領移され三草に立藩。代々幕府の役職に就く典型的な譜代小大名
龍野 兵庫県竜野市霞城町 脇坂安斐(やすあや) 外様 5.1 城主 池田氏鳥取へ国替えで本多政朝築城立藩。政朝が宗家姫路藩主を相続、小笠原長次が入封したが中津へ転封次いで岡部、京極氏の後脇坂安政が入封定着した。脇坂氏は赤穂城請取正使を勤めたり外様ながら寺社奉行、老中等要職を歴任した。幕末、一次長州征伐には出兵したが二次では脱落、戊辰時は新政府軍に属し越後に出兵した。
小野 兵庫県小野市西本町 一柳末徳(すえのり) 外様 1 陣屋 西条藩主一柳直盛の次男直家、分与受け立藩。没後小出直次が養子として減封の上相続、明治まで230年継続。
山崎 兵庫県宍粟郡山崎町鹿沢 本多忠明(ただあきら) 譜代 1 陣屋 姫路藩主池田忠雄の弟輝澄分与受け立藩したが家臣団の騒動の咎で除封、因幡鹿野へ。松平、池田氏の後本多忠英が入封定着す。忠鄰の時藩校思斎館を創設、財政再建にも尽力したが長州征伐の出兵等で軍費が嵩み困窮す。
赤穂 兵庫県赤穂市上仮屋 森忠儀(ただのり) 外様 2 城主 姫路藩主池田利隆、弟政綱に分与立藩。嗣子なく弟輝興が入封したが乱心、所領没収、代わって笠間より浅野長直入封し新城築城。しかし築城の費用が嵩み財政が逼迫、特産の赤穂塩を増産、販売組織の整備に尽力したが改善せず家臣召放しも断行した。さらに塩の専売による増収等図っている中、藩主長矩が吉良吉央に江戸城中で刃傷におよびお家断絶。塩をめぐる怨恨と思われる。その後永井直敬、森長直が入封した。森氏も塩田の開発、塩の品質向上、櫨の植林、倹約励行等実行したが更に悪化、幕末、財政改革派と保守派の争いで犠牲者がでた。
三日月 兵庫県佐用郡三日月町 森俊滋(とししげ) 外様 1.5 陣屋 津山藩主森長武の弟長俊、分与うけたが、津山藩の除封により播磨乃井野に移領立藩。しかし早世、病弱者が続き歴代相続に苦労し、広島藩浅野、新見藩関氏から養子を迎え継いだ。戊辰時新政府軍に属し越後、出羽に出兵す。
明石 兵庫県明石市大明石町 松平直致(なおむね) 家門 8 城主格 池田輝政領有後小笠原忠真が入封立藩し明石城を築城、城下町の整備と掘割に海水を引き船便を図り明石港を整備した。その後一時天領後戸田松平、大久保、藤井松平、本多氏と入転封を繰りかえしたがいずれも新田開発に注力した。ついで家康の曾孫松平直明が入封定着。直明も新田開発に努めたが河川工事、朝鮮通信使の饗応等で財政は逼迫し家臣の俸禄減給、上米をも命じたが効果はなかった。更に11代将軍家斉の子を養子に迎え加増は受けたが家門としての諸費用が嵩み一段と財政は困窮。幕末、ぺりー来航で品川警備、第二次長州征伐、鳥羽伏見への出兵の為鎮撫使の追討を招いたが宗家松平春嶽の取成しで難を逃れ、戊辰時は新政府軍に従い越後へ出兵す。
三木 兵庫県三木市上の丸町 外様 陣屋 三木城主の有馬則頼は関が原で家康に与し本領安堵されたが、後旧領の有馬を与えられ三田に転封廃藩。
福本 兵庫県神崎郡神崎町 外様 陣屋 播磨山崎藩主池田輝澄は家臣騒動の責任をとらされ除封、因幡鹿野に堪忍分1万石を所領。没後池田政直が領地
を福本に改めて立藩。没後弟政武達に分与し寄合に。政武系が明治に高直しで斎立藩したが後鳥取藩に合併廃藩
新宮 兵庫県揖保郡新宮町 外様 陣屋 本願寺門跡の坊官東派の下間重利は舅の池田を名乗り、大坂の陣の軍功で立藩。後嗣子続かず、弟重教が寄合に
佐用 兵庫県佐用郡佐用町 外様 陣屋 姫路藩主池田利隆(輝政嫡男)は弟忠継(次男)に分与、忠継没後養子忠雄(三男)は本領岡山を、宍粟郡を輝澄
(四男)に、赤穂郡を政綱(五男)に、佐用郡を輝興(六男)に相続。政綱嗣子なく輝興が赤穂を相続し佐用藩は廃藩。
その後輝興が突如発狂し妻、侍女を刺殺した為除封、岡山藩にお預けとなった。池田氏の赤穂支配は終わった。
淡路 洲本 兵庫県洲本市小路谷御熊山 外様 城主 脇坂安治、洲本城に入城領有したが、後大洲に転封。池田忠雄が入封したが岡山に転出し廃藩。徳島藩蜂須賀至鎮に与えられ家老稲田氏が居住す。明治3年、蜂須賀家の家臣と稲田家の家臣間で士族と卒に分ける階級問題で争いが起きる。稲田家家臣は蜂須賀家から見れば陪臣に当り卒に編入された。怒った家臣が新政府に直接嘆願した為蜂須賀家の家臣の襲撃を受けたもの。稲田家は主家蜂須賀家と違い新政府側につき東上、各地を転戦。また分藩運動に熱心。後稲田主従は北海道日高静内地方に渡り厳寒の土地で多くの犠牲者を出しながら発奮開拓に努めた。
備前 岡山(備前) 岡山県岡山市丸の内 池田章政(あきまさ) 外様 31.5 城主 関ヶ原御小早川秀秋が入封したが嗣子なく断絶。池田輝政の次男忠継に与えられるが急逝、弟忠雄が相続、次の光仲が幼少であった為輝政の孫、鳥取藩主池田光政と国替えとなる。光政は儒学を奨励し文治主義に基づいた藩政をしいた外、新田開発、殖産興業を図り質素を本旨とした備前風を確立した。次の綱政は新田開発、治水等を積極的に実施、後楽園の造営、閑谷学校の改築も行った。治政の時災害の為藩財政は困窮したが、松平定信の寛政の改革に故意に逆らってもいる。その後も凶作、飢饉から財政は破綻し再建の為簡略を主旨とする安政の改革を実施した。幕末、水戸斉昭の子茂政を養子に迎え、鳥取藩と共に長州藩の攘夷親征には自重すべき旨を建議した。この為長州征伐も名目的出兵に止まり、将軍慶喜との板挟みに苦悩したが最後は勤王の旗幟を鮮明にして転戦した。
児島 岡山県倉敷市児島 外様 陣屋 岡山藩主池田光政の弟恒元は分与うけ立藩。播磨に加増うけ播磨山崎に転封、廃藩。
備中 庭瀬 岡山県岡山市庭瀬 板倉勝弘(かつひろ) 譜代 2 陣屋 宇喜多秀家の家臣戸側達安は関ヶ原で家康に与し軍功たて庭瀬の旧領安堵立藩。しかし嗣子続かず除封、廃藩後久世重之入封し庭瀬城二の丸に陣屋を構え再立藩。その後藤井松平、そして板倉氏が入封し明治まで在藩した。
足守 岡山県岡山市足守 木下利恭(としやす) 外様 2.5 陣屋 木下家定は関ヶ原で妹の”ねね”を守衛、姫路より移封立藩。没後嫡男勝俊への相続が家康の怒りに触れ所領没収、勝俊は以後風雅の道に入る。浅野長晟が入封するも宗家和歌山藩を相続の為転封、幕領に。大阪夏の陣の軍功で木下勝俊の弟利房が再立藩、歴代藩主は果樹栽培の奨励、藩校、郷校の創設等、財政・教育に注力した。幕末、長州征伐、戊辰時の松山藩征討に出兵したが費用は領民からの献金と借入金で賄った。なお緒方洪庵は藩士の子。
鴨方(岡山新田) 岡山県浅口郡鴨方町 池田政保(まさやす) 外様 2.5 陣屋 岡山藩主池田光政の次男政言、分与うけ城下に居所を構え立藩。維新時宗家と朝廷側で行動、藩庁を鴨方に移す。
生坂(岡山新田) 岡山県倉敷市生坂 池田政礼(まさかた) 外様 1.5 陣屋 岡山藩主池田光政の三男輝録、分与うけ城下に居所を構え立藩。維新時宗家と朝廷側で行動、藩庁を生坂に移す。
成羽 岡山県川上郡成羽町成羽 山崎治敏(はるよし) 外様 1.3 陣屋 山崎家治、水谷勝隆が入転封後山崎家治の子豊治が交代寄合で再入封、鶴首に陣屋を。明治に高直し受け再立藩
高梁(松山) 岡山県高梁市内山下 板倉勝弼(かつすけ) 譜代 2 城主 秀吉の家臣小堀正次は関ヶ原で家康に与し本領安堵立藩。子遠州の時転封、池田長幸が入封したが嗣子続かず除封。水谷勝隆が入封し高梁川の水路開発、新田開拓、鉄山業の振興等藩政確立に努めたが嗣子続かず除封。安藤、石川、板倉氏が入転封した。板倉氏は幕政に関わる者多く、特に勝清(松平定信の孫)は寺社奉行となり井伊直弼と対立罷免されたが後老中に。Bn戊辰時奥羽越同盟の参謀として函館まで転戦、禁錮に処せられたが後許される。
岡田 岡山県吉備郡真備町岡田 伊東長とし(ながとし) 外様 1 陣屋 秀吉の家臣伊東長実、関ヶ原の時三成の挙兵を密告、が大阪の陣では大阪方に属し高野山へ。しかし関ヶ原の功で許され立藩。長貞の時陣屋を岡田に構る。長救は薪の商品化を図ったが失敗、長丘は灌漑用の岡田大池を築造
新見 岡山県新見市新見 関長克(ながかつ) 外様 1.8 陣屋 宮川藩主関長治は津山藩改易により転封立藩。政富の時財政の再建、藩校の創設等文教政策に成果を挙げたが実態と乖離した拝領高であった為財政は絶えず逼迫した。最後の長克は朝敵松山藩征討の為岡山藩と協力、出陣す
浅尾 岡山県総社市浅尾 蒔田広孝(ひろたか) 譜代 1 陣屋 秀吉の家臣蒔田広定、西軍に与し高野山へ逃れたが浅野氏の尽力で許され立藩。次の定正の時弟に分与し旗本に。。以降蒔田家が支配するが、幕末江戸市中警護の功労で高直しされ再度立藩。
西江原 岡山県井原市西江原町 外様 陣屋 藩主発狂で津山藩の所領は没収。隠居していた元藩主長継は再出仕を命じられ立藩。次の長直が赤穂に転封廃藩。
美作 真島(勝山) 岡山県真庭郡勝山町勝山 三浦顕次(たかつぐ) 譜代 2.3 城主 小早川氏の断絶後森忠政が領有、重臣各務氏、大塚氏が城番を務めたが一国一城令で廃城。幕府領後三浦明次が入封、旧高田城二の丸に新城築城し藩校を創設。矩次は鉄山経営、峻次はシーボルトの高弟石井宗謙を藩医に招聘し天然痘予防に尽力。幕末、長州征伐に出兵したが領内農民が軍夫、人足出役の不満で逃散する事件が発生。
津山 岡山県津山市 松平慶倫(よしとも) 家門 10 城主 関ヶ原後小早川秀秋が領有していたが無嗣絶家で改易、森忠政が入封立藩。直ちに築城と城下町の整備、検地の実施で藩政を固める。その後後継者争いや藩主の発狂で津山藩は収公されたが家名存続を許され赤穂に、支藩として三日月、新見藩が認められた。森家改易後越前松平宣富が入封したが農民一揆に苦しんだ外、嗣子なく絶家の危機から領地は半減(後将軍の子を養子、復元)している。康哉の時農村復興、勧農所の設置等藩政改革を実施した外藩校を設立、特に蘭学の振興に努めた。幕末、勅命で朝幕間の周旋に当たったが藩内は保守派が台頭、二度の長州征伐に出兵したが、後周辺の尊王討幕派に態度を迫られ、戊辰時は新政府側に属し伏見城を守った。
鶴田 岡山県御津郡建部町 松平武聡(たけあきら) 家門 6.1 陣屋 浜田藩主松平武聡は第二次長州征伐で萩藩兵の攻撃を受け居城を放棄、出雲杵築、松江、鳥取へ。そして同藩の飛地、美作鶴田に仮陣屋を構え立藩。鳥羽伏見で幕府側につき存亡の危機に瀕したが家老尾関氏の死で許される。
津山新田 岡山県津山市、津山城内 外様 城主 津山藩主森長武、弟長俊に北方の新墾田を分与、城内に居所構え立藩。宗家廃藩により転封廃藩、三日月藩立藩。
宮川 岡山県津山市 外様 陣屋 森忠政の家臣で娘婿の関成次の次男長政は領内において分与され立藩。宗家廃藩により転封廃藩、新見藩立藩。
因幡 鳥取(因州) 鳥取県鳥取市東町 池田慶徳(よしのり) 外様 32.5 城主 宮部長煕、関ヶ原で西軍に与し没収。池田輝政の弟長吉入封立藩。長幸の時転封、姫路藩主池田光政が入封し城下を完成した。転封後従兄弟の池田光仲が入封し明治まで在封した。光仲は重臣を押さえ藩主親政の体制を整備しまた新田開発を奨励した。後継争いが起きる中凶作が続き一揆の対策に苦慮、財政再建策として゛タタラ製鉄”と呼ばれる鉄山経営にあたった。幕末、水戸藩主徳川斉昭の五男慶徳を幕命により養嗣子に。この為鳥取藩は尊擾派と守旧派との対立が激化。禁門の変後藩内は混乱し、長州への出兵を決定したが鳥羽伏見戦では新政府軍に参陣。
若桜(西館新田) 鳥取県八頭郡若桜町若桜 外様 城主 秀吉の武将木下重賢は関ヶ原で西軍に与し除封。山崎家盛が入封立藩したが没後転封、鳥取藩領となる。藩主池田綱清は弟清定に分与立藩、”西館”と呼ばれた。五代定常は諸学に精通し、毛利高標、小橋長昭と並んで”文学三候”といわれた。最後の徳定は宗家と共に戊辰時新政府軍として参戦、若桜に陣屋を構える。後宗家に合併廃藩。
鹿野(東館新田) 鳥取県気高郡鹿野町 外様 陣屋 尼子氏の旧臣、鹿野城主亀井これ矩は関ヶ原で軍功たて加増、更に貿易船の朱印状をうける。没後転封、鳥取諒になり山崎藩主を除封、お預けの身の池田輝澄の堪忍分として分与したが政直の時転封、再度藩領に。藩主光仲は次男仲澄に新墾田を分与、支藩として立藩。”東館”と呼ばれた。戊辰時新政府軍として参戦。後宗家に合併廃藩。
伯耆 倉吉 鳥取県倉吉市 外様 陣屋 安房館山城主里見義康は関ヶ原の軍功で加増、没後秀忠から忠の一字をもらった忠義は正室の実家、大久保忠隣事件に連座したとして本領没収され倉吉に転封立藩。更に池田光政の鳥取入封に伴い領地没収廃藩。里見氏断絶以後宿場町に変貌し重臣伊木氏が支配、治水工事に意を注ぎ玉川沿いの商人土蔵群が形成された。又特参の一つに日野産の印賀鉄を用いた稲の千歯扱がある。池田光仲の時は家老荒尾氏が支配、明治まで陣屋を構えた。
矢橋 鳥取県東伯郡東伯町八橋 外様 城主 今尾城主市橋長勝は関ヶ原の軍功で加増うけ毛利氏の押え、八橋に転封立藩。大阪の陣で加増、三条に転封廃藩。
黒坂 鳥取県日野郡日野町黒坂 外様 城主 米子藩主中村一忠無嗣絶家で除封。関一政入封立藩。池田光政鳥取入封により除封、鳥取藩重臣福田氏が支配。
米子 鳥取県米子市湊山 外様 城主 吉川広家が関ヶ原の功績で転封。中村一忠入封立藩したが嗣子なく除封。加藤貞泰入転封後鳥取藩領に編入廃藩
石見 津和野 島根県鹿足郡津和野町城山 亀井?監(これみ) 外様 4 城主 関ヶ原後坂崎出羽守直盛が入封立藩。大阪の陣での千姫救出で加増受けたが千姫奪取を企て自刃、廃絶。亀井政矩が入封、子これ政の時尼子旧臣と新興家臣との対立が起こり幕府の介入で尼子派が敗れ藩政が確立した。当初は田畑の開墾、楮・櫨・漆等の栽培奨励で潤ったが飢饉により財政は逼迫、これ監の時有能な家臣を採用し経済・兵制を刷新、又国学を重視する等藩政改革を断行す。長州征伐で出兵したが戦わず鳥羽伏見では新政府軍につく。
浜田 島根県浜田市殿町 家門 城主 関ヶ原後古田重晴が浜田城に入城立藩。後御家騒動で断絶。家康の孫、松平康映が入封する。家督騒動、大旱魃による農民一揆、江戸藩邸で鏡山事件が発生したが古河に転封。しかし本多氏を挟んで再入封する。廉定の時財政再建の為植林に注力、石見半紙の改良に努めた。次の康任は老中に就任したが運上金めあての密貿易が発覚、老中免職のうえ棚倉に左遷される。その後家門の松平斉厚が入封、大飢饉救済の為の穀倉の設置や藩校を創設し学問を奨励した。幕末第二次長州征伐で敗れ、長州軍に攻められたが藩主脱出、飛地の鶴田へ移り鶴田藩を立藩。
吉永 島根県大田市川合町吉永 外様 陣屋 会津藩主加藤明成、家中不統一、失政を理由に改易。しかし祖父嘉明の勲功の免じ、明友に家名存続を許され立藩。明友は奏者番として江戸に在住し、領内では牛馬の改良、新田の開発等に尽力す。水口に転封、廃藩。
出雲 松江 島根県松江市殿町城山 松平定安(さだやす) 家門 18.6 城主 関ヶ原後堀尾吉晴、富田城に入城立藩したが統治不便から松江城を築城。しかし嗣子続かず絶家、京極忠高が入封したが参勤中に病没、断絶した。その後家光の従兄弟、越前松平直政が入封。時勢を的確に見極め、職制、政教を確立、治水・殖産に尽力、藩政の基礎を築いた。しかし藩財政は苦しく、たたら製鉄の買上制、櫨から作られる蝋燭の専売制等収入増加策、江戸藩邸の冗費冗員の廃止等支出削減をはかったが自然災害、火災等から解決は出来なかった。この中藩主不昧は大名茶を大成し石州流不昧派を興し、茶器の蒐集をする等文人大名として名を残した。。最後の定安は第一次、二次長州征伐に出陣、佐幕派の右翼と目されていたが戊辰時、尊王に統一、帰順を許される
広瀬 島根県能義郡広瀬町広瀬 松平直巳(なおおき) 家門 3 城主格 松平直政の次男近栄、分与受け立藩。越後騒動の調停失敗の咎で閉門、知行半減したが後加増受け復活。藩政は本藩の方針に準じる。直寛の時多年の幕府公使の精励を認められ城主格に。幕末の激動期も本藩に準じた。
母里 島根県能義郡伯太町西母里 松平直哉(なおとも) 家門 1 陣屋 直政の三男隆政、分与受け立藩。最初は蔵米支給であったが後母里周辺に領地を。藩政は本藩に準じた。
備後 福山 広島県福山市丸の内 阿部正桓(まさつね) 譜代 11 城主 福島正則改易後水野勝成が”西国の鎮衛”として入封立藩し新城築城、城下町の整備と畳表、木綿の生産を奨励統制した。しかし嗣子続かず断絶、代わって松平忠雅、次いで阿部正邦が入封。阿部氏は正右、正倫、正弘とも寺社奉行、老中など幕府要職を歴任、特に正弘はペリー再来航で開国を決意し日米和親条約締結した。又藩校弘道館を廃し誠之館を創設、文武修練に努めた。しかし長州征伐で敗退、鳥羽伏見の時には新政府軍に勤王を誓った。
三次 広島県三次市 外様 陣屋 広島藩主浅野長晟の庶子長治、分与受け広島藩の支藩として立藩。しかし嗣子続かず藩領は本藩に還付、廃藩。
安芸 広島 広島県広島市中区基町 浅野長勲(ながこと) 外様 42.6 城主 関ヶ原後福島正則が西国の太守として入城立藩、石垣無断修理の咎で改易、浅野長晟が入封し知行、税、司法制度を整備。綱長在任中、分家浅野長矩の刃傷事件が発生、浪士の復習に陰ながら援助?。次の吉長は藩主の直接政治の実現、軍制改革、文教の振興等藩政改革を断行した。更に藩の特産品の木綿、塩、鉄、紙生産を奨励、統制した。その後の重晟も倹約令を実施し逼迫した藩財政の再建に努めたが、幕府の公役負担や将軍家との婚儀費用等で借財は膨らんだ。幕末、長州征伐では長州藩との周旋に奔走、征長に名分がないことを主張、征長先鋒を辞退。その後一時薩長芸三藩同盟を締結したが挙兵倒幕を主張する薩長と相容れず除外さるが戊辰時錦旗を掲げ出兵。
広島新田 広島県広島市 外様 陣屋 三次朝野家が無嗣絶家廃藩、青山浅野家として復活。支藩として宗家を助け幕末まで存続したが明治に合併、廃藩
周防 岩国 山口県岩国市横山 吉川経健(つねたけ) 外様 6 陣屋 吉川広家は関ヶ原で家康に内応、毛利家の存続を果たしたが宗家移封。広家も富田月山から岩国に移り城を築くも一国一城令で破却、麓に居所を構える。宗家との疎遠事情から諸侯の列に推挙されなかったが幕府からは諸侯並みの待遇をうける。その後も昇格運動は続けられ汚職事件に発展、又これら負債増等から財政は困窮した。経幹の時宗家と和解、第二次長州征伐では宗家と強力し幕府軍を撃退、戊辰時は新政府軍に参陣軍功たて諸侯に列した。
山口 山口県山口市滝町 毛利元徳(もとのり) 外様 36.9 城主 幕末、毛利敬親は辺鄙な萩から藩庁を移す。保守派に囲まれた萩では攘夷が実行出来ない為。直後外国船を砲撃した下関戦争を起こし高杉晋作の奇兵隊が参戦した。八・一八の政変、禁門の変から長州征伐の命が下り恭順謹慎した。敗戦後保守派と革新派との争いで保守派が敗れ、薩長連合に進む。第二次長州征伐では幕府軍を破り倒幕の密勅を受ける。版籍奉還では木戸の意見を容れて薩摩、土佐、肥前の三藩主に奉還を奏上させた。
徳山(下松) 山口県徳山市徳山公園区 外様 陣屋 萩藩主毛利輝元は次男就隆に分与、当初下松に陣屋を構えたが後徳山に。元次の時宗家と松木の伐採で争いが起き幕府の調停で元次除封。藩領は萩藩に還付廃藩となったが藩士らの再興運動が叶い次男元尭の相続が許された。広鎮の時長年の領民救済の施策等が認められ城主格に。幕末は馬関戦争、禁門の変等宗家と行動を共にし、戊辰時は新政府軍として出兵参戦した。廃藩置県の1ヶ月前に萩藩と合併、廃藩。
長門 豊浦(長府) 山口県下関市長府 毛利元敏(もととし) 外様 5 城主格 萩藩主毛利輝元は養子秀元に分与、勝山城に入城立藩。勝山城は一国一城令で破却、麓に居館を構えた。綱元の時叔父の元知に分与、清末藩を立藩。宗家との相続血縁を深めつつ幕末も宗家と行動を共にし激動期を奔走した。
清末 山口県下関市清末 毛利元純(もとずみ) 外様 1 陣屋 長府藩主毛利綱元、叔父の元知に分与立藩。次の元平が長府藩主を継ぎ、一時廃藩となったが元平の次男政苗に再分知立藩。その後も宗家を助け、禁門の変、下関戦争、戊辰戦争等行動をともにする。
山口県萩市堀内 外様 城主 毛利輝元、関ヶ原の役の敗戦で周防、長門の二ヶ国に減封、萩に築城立藩。元就の四男元清の子秀元に長府を、元就の次男元春の子吉川広家に岩国を、次男就隆に徳山を分与し体制を整えた。又検地の実施、家臣団の八組の編成、藩法典”万治制封”の制定等藩体制を確立していった。しかし財政は家臣が過剰なこともあり慢性的に困窮、敬親の時村田清風、周布政之助を登用し天保、安静の改革を断行した。政治的には尊王攘夷派が主流となり外国船を砲撃した下関戦争を引き起こしたが無力を痛感、藩は奇兵隊を中心とした農町民、脱藩浪士らが参加した新しい混成精鋭部隊を編成した。またこの時本拠を山口に移し以後山口藩と称した。
阿波 徳島 徳島県徳島市城内 蜂須賀茂韶(もちあき) 外様 25.7 城主 阿波藩主蜂須賀至鎮は関ヶ原で家康方に参陣安堵、大阪の陣で淡路を加増される。藩政の規範”御壁書”の制定や塩業の奨励。忠英の時海部城番家老益田長行が海部郡の分藩を画策する事件が発生、以後門閥から官僚体制へ転換する。又、綱矩の時他国米の密移入をめぐる”傾城阿波の鳴門”事件が起きている。次の宗員は特産品の藍を専売とした。次の宗英は嗣子がなく蜂須賀家の血統が絶える。以後高松藩松平氏、出羽岩崎藩佐竹氏からの養子で継いている。十代重喜、次ぎの治昭とも普代門閥層の排除、藍商人の保護、学問の奨励等改革を断行。幕末将軍家からの養子斉裕は公武合体を藩是としペリー来航の品川警護や淡路に砲台の築城や砲術訓練に尽力。幕府の陸海軍総裁に任ぜられ、更に朝廷に親兵を送った。長州征伐に出兵したが斉裕没後戊辰時は倒幕を鮮明にする。
住吉 徳島県板野郡藍住町 外様 城主 播磨置塩城主赤松則房、板野郡に住吉城を築城立藩したが嗣子なく除封、蜂須賀家に編入。一国一城令で破却。
冨田 徳島県徳島市冨田 外様 陣屋 徳島藩蜂須賀忠英の次男隆重、分与され立藩。宗家藩主綱矩の五男正員が養子相続していたが宗家を継ぎ廃藩。
讃岐 多度津 香川県仲多度郡多度津町家中 京極高典(たかのり) 外様 1 陣屋 丸亀藩主京極高豊の子高通、分与受け立藩。高賢の時丸亀城内にあった藩庁を多度津に陣屋を構え移る。次の高琢は多度津港を築造物資の集散地として繁栄。勤王方として鳥羽伏見、戊辰で行動、朝敵、高松藩追討の先鋒。
丸亀 香川県丸亀市一番丁 京極朗徹(あきゆき) 外様 5.1 城主 山崎家治入城立藩したが嗣子続かず絶家。山崎家は備中成羽に分与うけ家名存続。幕領後京極高和入封、丸亀城の完成と城下町の整備、新田の開発を行った。高朗の時藩校を増設した他家臣に団扇製造を奨励、又港を築造し瀬戸内随一の良港として繁栄した。戊辰時は新政府側に従って行動した。
高松 香川県高松市玉藻町 松平頼聡(よりさと) 家門 12 城主 高松城主生駒親正は関ヶ原で西軍に与したが子一正は家康方に属し本領安堵。が高俊の時重臣達の抗争を阻止できず出羽矢島へ。一時近隣大名の預かり地に分割されたが山崎家治が丸亀に、松平頼重が高松に入封立藩。頼重は家光から四国・中国の監察役を命じられた。しかし財政逼迫から、倹約令、家臣の録打ち切り等断行したが頼恭の時薩摩から砂糖黍を輸入し白砂糖製造に成功、更に坂出塩田を完成し製糖、木綿と共に讃岐の三白と言われ財政立て直しに成功。しかし頼儀の時、当初は坂出塩田事業に力を注ぎ全国有数の生産高を占める要因を作ったが次第に放漫財政となり江戸屋敷の火災等出費も重なり財政は破綻。次の頼恕は坂出塩田の拡張、砂糖生産の奨励、溜池の築造等で財政を再建した。最後の頼聡は鳥羽伏見で会津と参戦、朝敵として追討うけたが謹慎恭順し謝罪。
伊予 小松 愛媛県小松市 一柳頼明(よりあきら) 外様 1 陣屋 一柳直盛の三男直頼分与うけ立藩。幕末藩校養正館を創設し伊予聖人、近藤篤山を招聘。奥羽征討に出兵し軍功。
吉田 愛媛県北宇和郡吉田町立間尻 伊達宗敬(むねたか) 外様 3 陣屋 宇和島藩主伊達秀宗の子宗純、分与立藩。紙の売買をめぐり農民強訴発生。幕末藩政を軽視した佐幕派藩主交替
宇和島 愛媛県宇和島市丸の内 伊達宗徳(むねえ) 外様 10 城主 藤堂高虎が関が原の軍功で転封後富田信高が入封するも改易、幕領後伊達政宗の庶子秀宗が入封立藩。就封費用、大阪城修築助役費用等から財政負担は大きかったが検地、漁業税実施で藩政の基礎を固めた。その後も自然災害等から財政は窮乏したが、農地改革や倹約令、蝋,紙の生産統制、鰯の加工販売等殖産興業を実施、積極策で再建した。幕末、宗城は藩内諸産業の富国政策の推進や軍制改革を推進、洋式砲術を導入し砲台を築城した。又高野長英を城下に保護し洋学を開花させた。薩摩、土佐、福井藩等と開国通商の態度を表明していた為安政の井伊直弼の専権で謹慎処分受けたがその後も中央政界で活躍し王政復古後議定、参議に任ぜられ大蔵卿にもなった。
新谷 愛媛県大洲市新谷町 加藤泰令(やすのり) 外様 1 陣屋 大洲藩主加藤貞泰の次男直康、分与うけ立藩。大洲藩の農民強訴を新谷藩の調停と寺門のとりなしで解決した。
大洲 愛媛県大洲市大洲 加藤泰秋(やすあき) 外様 6 城主 冨田信高改役後脇坂安治が入封立藩。転封後加藤貞泰が入封、加藤家は代々好学の藩主を排出。泰温は陽明学に傾倒し大洲伝統の藤樹学により領民の社会教科に勉めた。又泰済は倹約を令し士風の刷新を図り新銀札の発行等、藩政改革を達成した。幕末、勤王の藩意を固め鳥羽伏見では天皇の警護、大阪親征では天皇の供奉先駆に。
西条 愛媛県西条市明屋敷 松平頼英(よりひで) 家門 3 陣屋 大坂の陣の軍功で一柳直盛入封立藩。だが赴任途中没した為嫡男直重が継ぎ、一部を弟達に分与したが藩政失政等で除封廃藩。和歌山藩主徳川頼宣の次男松平頼純が立藩、その後宗家との間で藩主の相互派遣をしている。又財政対策として塩田の開墾、奉書紙の生産を奨励した。最後の頼英は勤王に統一、鳥羽伏見で新政府軍に参陣す。
今治 愛媛県今治市通町 松平定法(さだのり) 譜代 3.5 城主 藤堂高虎、関が原の軍功で国府城に入城。不便な為今張浦に新城築城したが伊勢に転封、しかし伊予越智に領地があった為養嗣子高吉を今治城に残す。その後転封、久松松平定房が兄定行の松山藩入封に伴い入封立藩。定陳の時兵学者江島氏を家老に登用し農民の租税負担均等化や塩田の開拓、甘藷の試作、更には軍制、法令を改革し藩政を整備した。最後の定法は松山藩と同じく新政府に恭順し御所の警備や征東軍に従軍し会津戦争にも参戦した。
松山 愛媛県松山市丸の内 松平勝成(かつしげ) 家門 15 城主 伊予正木領主加藤嘉明、関ヶ原で家康に与し加増松山城を築城。転封後蒲生忠知入封するも嗣子なく断絶。久松松平定行が入封、天守の増築、殖産興業に務め基礎を固めたが以後天候不順や自然災害に悩まされ定英の時には多くの餓死者をだすに至った。その中で中興の英主と言われた定通は倹約の励行、士風刷新の為の藩校の創設、町方、農村建て直しの為の金融、貯銀、備荒貯蓄等の施策を行った。更に紙、蝋、綿、木綿等の生産を育成した。しかし財政難は改善せず幕末、勝成の時危機的状況の中一次、二次、長州征伐で四国軍の先鋒として出兵したが敗北の打撃を受けた。鳥羽伏見でも幕府軍に参戦、朝敵として追討され恭順謹慎の上戦費を献上する等、新政府に接近
松前 愛媛県伊予郡松前町 外様 城主 加藤嘉明は小田原の陣、文禄・慶長の役で軍功たて松前城入城。関が原で家康に与し加増うけ松山城に移り廃藩。
来島 愛媛県今治市来島 外様 城主 伊予の水軍来島通総は秀吉配下で軍功たて風早に領有。子康親は関が原で東軍に寝返り本領安堵。後転封廃藩。
国府 愛媛県今治市古国分寺山乙 外様 城主 秀吉の家臣、小川祐忠は関が原で東軍に寝返ったが恩賞なく改易。藤堂高虎が入城したが今治城完成で移り廃藩。
松山新田 愛媛県松山市 家門 城主 松山藩主松平定英の弟定章に分与立藩。定章は大番頭に昇進。次の定静が宗家を相続した為廃藩。
土佐 高知 高知県高知市丸の内 山内豊範(とよのり) 外様 24.2 城主 長曾我部氏は関が原で西軍に与し所領没収。山内一豊が封じられたが遺臣が多く紛争が頻発。一豊入封後手狭な浦戸城から高知城築城したが病没。嗣子なく弟康豊の嫡男忠義が相続、財政対策として山林の売却や野中兼山を登用し新田開発、郷士の採用で実績を挙げたが反対派の策謀で失脚。忠昌の時それまでの法令を集大成した元禄大定目を公布。その後大地震や大火、凶作で財政は窮乏したが製紙業の統制、樟脳の専売制、徹底的経費削減等で再建に成功した。幕末、分家南家から容堂が相続、大目付吉田東洋を抜擢し後藤象二郎、板垣退助等開明的な”新おこぜ組”の支持により保守派重臣の排斥、洋式軍備の採用、国産品の奨励等の改革を実施させた。安政の大獄を契機に尊王攘夷運動が高まり武市を首領とする土佐勤王党が結成、他方容堂の意を受けた公武合体派の吉田東洋と対立、東洋が暗殺された為容堂は土佐勤王党を弾圧した。東洋の後継、後藤象二郎は洋式蒸気船の購入で航海学や海軍砲術の教育を実施、更に岩崎弥太郎を中心に長崎貿易を実施、富国強兵を図った。そして大政奉還を上奏、努力が実り無血政権交代が実現した。鳥羽伏見で参戦、板垣率いる藩兵は戊辰戦争で奥羽を転戦した。
高知新田 高知県高知市 外様 陣屋 高知藩主山内忠義の四男一安は分与うけ豊産の時加増され諸侯に列し立藩。幕末、鳥羽伏見で敗れた慶喜に随伴して江戸城に帰城した時主戦論に同調したが宗家の情報に接して、その進退に悩み自刃。明治に本藩と合併廃藩。
浦戸 高知県高知市浦戸 外様 城主 長曾我部氏除封後山内一豊が入封、遺臣による一揆勢を排除し浦戸城に入城。後高知城を築城し移った為廃藩。
中村 高知県中村市丸の内 外様 陣屋 高知藩主山内一豊の弟康豊、分与立藩したが嗣子続かず絶家。その後宗家三代藩主忠豊の弟忠直が分与立藩。豊明の時若年寄に昇進したが病気理由の辞職願いが将軍綱吉の怒りに触れ免職、後許されるも所領本藩に没収。
筑後 三池 福岡県大牟田市大字新町 立花種恭(たねゆき) 外様 1 陣屋 一万田鎮種は名族高橋氏の名跡を継ぎ三池を領有していたが、子直次が関ヶ原で西軍に与し失領。後家康に仕え立花氏に改姓、子種次の時加増うけ立藩。貫長の時石炭の掘削を始め三池炭坑の基礎ができた。種周は若年寄に昇進したが政争に巻き込まれ解任、下手渡に左遷廃藩。種恭の時旧領の一部と交換し再度三池に居所を移し立藩。
柳河(柳川) 福岡県柳川市本城町 立花鑑寛(あきとも) 外様 11.9 城主 立花宗茂、関ヶ原で西軍に与し改易、家康に救われ棚倉に立藩。田中吉政が入封するも嗣子続かず除封されると立花宗茂が再入封、旧家臣の復帰や城下町を整備した。鑑任は新田開発、銀札発行、櫨運上金の設立、炭坑の開発を行った。幕末鑑寛は家老立花壱岐を登用、産物の交易利潤を求める産業経済政策と兵制改革を行い新軍隊を組織し、軍備の充実にも努めた。二度の長州征伐に出兵したが戊辰時は新政府軍に属し会津戦争に参戦した。
久留米 福岡県久留米市篠山町 有馬頼咸(よりしげ) 外様 21 城主 毛利秀包、関ヶ原で所領没収。田中吉政が柳川城主となったが、嗣子続かず除封。代わって有馬豊氏が入封、久留米城の改修と城下町を整備。頼元は倹約令や治水に注力し大石水道を完成。則維は知行制の廃止、定免制の検見取への転換等行財政改革を促進、更に床島堰の完成で藩庫を潤した。しかしその後の虫害や手伝い普請等で財政は急速に困窮した。幕末二度の長州征伐に出兵したが大政奉還で一変、戊辰時は新政府軍に属し函館まで転戦す。
松崎 福岡県小郡市 外様 陣屋 久留米藩主有馬忠頼の養子小出豊祐は実子誕生で分与立藩。だが姉の婚家、土方家の抗争を仲裁せず没収廃藩。
筑前 福岡(筑前) 福岡県福岡市中央区城内 黒田長知(ながとも) 外様 47.3 城主 関ヶ原の軍功で黒田長政、名島城に入城立藩。後新城築城す。次の忠之の時寵愛小姓、倉氏の側近政治の乱れを因とする”黒田騒動”が起きる。島原の乱の出兵、警護等から財政は逼迫、次の光之は家臣の軍制、録制、職制を改革、又有田焼の専売等積極的に再建策を実施。歴代藩主も倹約令、新田・塩浜の開発、備荒貯蓄等で対策したが改善出来なかった。その後藩主が一橋、京極、薩摩家と他家からの養子で継いだが幕末、島津長溥が相続、洋学の関心深く西洋の知識、技術を積極的に摂取した。政治的立場は開国と公武合体の佐幕派であったが、八・一八の政変で挫折、後は藩論が大きく勤王、佐幕にぶれた為多くの殉職者を出している。最終的には勤王として戊辰時新政府側で参陣。次の藤堂家の養子長知は巨額の借財返済に困り太政官札を贋造、発覚し免職処分を受けた。
秋月 福岡県甘木市野鳥 黒田長徳(ながのり) 外様 5 城主格 秋月種長は関ヶ原で家康側に寝返ったが高鍋に移封減封。黒田家の領有となり長政の三男長興に分与立藩。長興は島原の乱に出陣し軍功たて、以後本藩の羽翼として本藩主の名代を勤めた。長貞は定免制の実施や蔵米知行を採用、長舒は嘉摩川水道を黒崎に通し永世水運を図る等実績をあげた。幕末長徳は新銃隊を組織して様式調練を行ったが藩論は一貫して佐幕派であった。しかし佐幕派の中心人物が暗殺されるに及んで旧幕領の取締に出兵した。
名島 福岡県福岡市東区名島一丁目 外様 城主 関ヶ原後小早川秀秋は岡山へ。小早川と吉川広家を味方に引き込んだ功績で黒田長政が名島城に入城。後福岡へ。
東蓮寺(直方) 福岡県直方市 外様 陣屋 黒田長政の四男高政に分与立藩。嗣子がなく之勝、長寛と宗家から養子を迎えたが長寛の時宗家の兄が廃嫡された為宗家を相続、本藩に還付廃藩。その後宗家綱政の弟長清に分与立藩したが嗣子続かず絶家、本藩に還付廃藩。
豊前 豊津(小倉) 福岡県北九州市小倉北区城内 小笠原忠忱(ただのぶ) 譜代 15 城主 関ヶ原後細川忠興が入城、五層の天守を持つ城に改造。転封後家康の曾孫、小笠原忠真が九州外様の監視役として入封。次の忠雄は家臣の俸禄制への変更や密貿易の唐船の打払いに注力したが、藩財政は窮乏し始めた為忠総の時犬甘兵庫を登用、製造・商業からの運上金の徴収や新田開発を推進し財政は再建されかけたがその反動として御家騒動が勃発し失脚、財政は一層困窮した。又忠固の時老中昇進画策に絡み家老間の対立で家臣の大量出奔騒動が起きた。幕末、砲台の築造、大砲、砲弾の鋳造、農兵組織の推進等有事に備えたが長州征伐には消極的であった。逆に奇兵隊や長州軍が門司に上陸、苦戦。一時は撃退したが応援の熊本藩が撤兵した為城に火をかけ香春に退却し藩庁を設置した。後長州藩と講和が成立、戊辰時は新政府に参陣し奥羽に出兵し、明治に藩庁を豊津に。
千束(小倉新田) 福岡県豊前市 小笠原貞正(さだまさ) 譜代 1 陣屋 小倉藩主小笠原忠雄の弟真方は分与うけ城下に居所を定め立藩。明治まで在封したが最後の貞正が千束に移転。
中津 大分県中津市中津町二ノ丁 奥平昌邁(まさゆき) 譜代 10 城主 関ヶ原後細川忠興が中津城に入城したが居城を小倉城に移した為枝城となった。細川氏転封後小笠原長次が入封立藩したが長興の時転封、奥平昌成が入封し倹約令、綿、製蝋業等商業の保護育成したが旱魃や虫害による大凶作に苦しんだ。幕末一次、二次長州征伐に出兵、又徳川慶喜追討の議起きると津山、高田藩と朝廷に哀訴嘆願した。
竜王 大分県宇佐郡安心院町 譜代 城主 関ヶ原後細川氏の城代がいたが転封後能見松平重直が加増うけ立藩。後高田に築城し移った為廃藩。
豊後 日出 大分県速見郡日出町 木下俊愿(としよし) 外様 2.5 城主 木下延俊、関ヶ原で家康に与し加増立藩。延俊の室は細川忠興の妹、明治まで一氏世襲であった。また鶴成金山が発見され財政の柱となった。俊治は藺草を導入、俊長は溜池築造し農耕を奨励、更に学問に尽力した。俊程も又溜池築造や桧等の植林を、更に藩校を創設し学問の普及に注力した。幕末、藩論は二分のまま維新を迎えた。
大分県玖珠郡玖珠町 久留島通靖(みちやす) 外様 1.2 陣屋 伊予来島の藩主来島長親は領地を移され立藩。明礬を専売し財源に。幕末逸早く尊王を表明し府内藩を説得した。
大分県竹田市竹田岡 中川久成(ひさなり) 外様 7 城主 中川秀成は関ヶ原を無事乗り切り明治まで在藩した。幕府の銭座が城下古町に設けられ藩領の尾平山銅山の銅で寛永通宝の鋳造が行われた。久貴の時増税目的の新法が実施されこれに反対する農民一揆が豊後一円に波及した。幕末豊後国の尊擾運動を主導し一部は倒幕の画策に奔走したが藩論は日和見の姿勢をとり明治を迎えた。
臼杵 大分県臼杵市臼杵 稲葉久通(ひさみち) 外様 5 城主 関ヶ原後稲葉貞通が入封立藩。その後大阪の陣、島原の乱に出陣、府内・島原城の城番を勤めた。景通は大溜池を拓いて一万石の新墾田を得た。城下町には唐人町、浜町等”町八町”と呼ばれる商人町が経済の中心地として賑わった。しかし財政は窮乏し始め、又農民一揆や打ち壊しが発生した。幾通の時天保の改革を実施、厳しい緊縮政策や家臣、農民の規制で再建した。幕末、鉄砲組の編成や台場を築造し多難な政局に当たったが無事明治を迎えた。
府内(大分) 大分県大分市荷場町 大給近説(ちかよし) 譜代 2.1 城主 関ヶ原後竹中重利が入封立藩したが嫡男重義が罪を得て刑死。代った日根野義明も嗣子なく除封、後大給松平忠昭が入封した。次の近陳は寺社奉行等幕府要職を務めた。その後の藩主も倹約令、藩札の発行、楮・櫨・筵の専売、運上金の徴収等藩政改革し成果を挙げている。最後の近信は桑名藩松平定永の七男で若年寄に任ぜられた為尊王の態度もとれず藩論は二分したが鳥羽伏見で島津家を通じ新政府に恭順した。
杵築 大分県杵築市城の鼻 松平親貴(ちかとう) 譜代 3.2 城主 細川氏重臣が城代を務めたが転封後小笠原忠知が入城立藩。転封後松平英親が入封し、検地、法制の整備、灌漑事業、新田開発、畳表の苗の植林等を積極的に進めた。親賢は哲学者三浦梅園を登用、藩校を創設し家臣の教育に注力。幕末外国船が相次いで寄港、幕末意識を高めたが親幕態度を堅持し長州征伐に出兵したが最後は恭順す。
佐伯 大分県佐伯市鶴谷城山 毛利高謙(たかかた) 外様 2 城主 関ヶ原の軍功で毛利高政入封立藩。高慶は江土城普請助役を勤め、又藩内の民政に意を注ぎ、機構を整備確立した。高標は藩校を創設、佐伯文庫を開き、他方製紙業を育成し紙の専売を実施した。最後の高謙は海岸防備に注力
高田 大分県豊後高田市 譜代 陣屋 竜王藩主松平重直、高田に築城、移転立藩。子英親の時杵築に転封廃藩。
亀川 大分県別府市亀川 譜代 陣屋 大給松平忠昭、亀山より亀川に陣屋を構え立藩。その後陣屋を中津留に移した為廃藩。
中津留 大分県大分市 譜代 陣屋 大給松平忠昭、陣屋を亀川から移し立藩。忠昭は島原の乱に出陣、鎮定後冨岡城城番を勤めた後高松に転封廃藩
高松 大分県大分市 譜代 陣屋 冨岡城城番を勤め軍功あった松平忠昭は陣屋を高松に移し立藩。その後明城だった府内城に移った為廃藩。
隈府 大分県日田市 外様 城主 隈城城主毛利高政は朝鮮の役で軍功。関ヶ原で西軍から家康方に参陣し安堵立藩。その後佐伯城に移され廃藩。
日田 大分県日田市丸山町 譜代 陣屋 関ヶ原後、毛利高政や久留島康親が領有したり江戸初期から領有関係が定まらなかったが以後も石川忠総、天領そして越前松平直矩が入封転封、天領を繰り返し以後維新まで代官陣屋が置かれた。
肥前 佐賀 佐賀県佐賀市城内二丁目 鍋島直大(なおひろ) 外様 35.7 城主 九州の豪族龍造寺政家は秀吉に安堵されたが病気を理由に重臣鍋島直茂に譲り隠居。直茂は関ヶ原で西軍に与したが立花宗茂討伐の功で安堵。初代藩主勝茂は旧龍造寺氏一門に対する統制を強めると共に弟達に分与し本支藩体制を確立、又一門を登用して御親類四家を創設、光茂は三家格式を制定して支配権を強めると共に世録制の実施、殉死の禁止等文治主義的政策を実姉した。武士道書”葉隠”はこれらに対する反動書である。この頃から財政は、困窮、治茂は藩校の創設や殖産興業として新田開発や有田焼の育成に注力、他方罪人を普請場で働かせる懲役刑制に改め労働力を捻出した。直正は軍事力の育成を痛感し財政の立直しを断行、農村秩序の再編成を企画、借財の利子の免除、土地再配分する均田制を実施、又国産方を設け陶器、石炭、白蝋等を専売とした。次に洋式軍事工場を開設、新式銃や大砲の鋳造、蒸気船の進水に成功、陸海軍最強と言われた。当藩は開明的改革を断行したが将軍家との姻戚関係からか尊攘、倒幕運動で比較的傍観的態度であったが戊辰時は上野、東北戦争で参戦し強力な火器で政府軍の勝利に貢献。そして江藤新平、副島種臣、大隈重信等優秀な人材を輩出し明治政府を支えた。
蓮池 佐賀県佐賀市蓮池町 鍋島直紀(なおのり) 外様 5.2 城主 佐賀藩主鍋島勝茂の三男直澄、分与受け立藩。直与の時高島浅五郎を招聘し鎔造所を作り、巨砲数十門を鋳造。
鹿島 佐賀県鹿島市高津原城内 鍋島直彬(なおよし) 外様 2 城主 鍋島直茂の次男忠茂、分与立藩したが勝茂と不仲となり旗本に、九男直朝が継ぐ。最後の直彬は宗家代理で奔走。
小城 佐賀県小城郡小城町 鍋島直虎(なおとら) 外様 7.3 陣屋 佐賀藩主鍋島勝茂の長子元茂、生母の家柄低く分与立藩。当藩は宗家の家臣扱いであったが幕府からは大名扱い
唐津 佐賀県唐津市東城内 小笠原長国(ながくに) 譜代 6 城主 長崎奉行寺沢広高、関ヶ原で家康に与し加増立藩、唐津城を築城。子堅高の時島原の乱が勃発、その責めで減封、嗣子なく断絶廃藩。幕領後大久保忠職が入封、以後唐津藩は九州の外様の監視役となる。転封後大給松平乗久が、次に土井利益が入封し儒教を基本とした文治政治を推挙し領内に民間熟を開いた。代わって水野忠任が入封したが財政は極度に逼迫、過酷な年貢増徴策を採った為大規模な一揆が発生、藩の敗北に終わっている。忠邦は幕閣昇進を狙い浜松藩への国替えを実現、後老中として天保の改革を行った。この国替えには一万石の上知条件、転封費用等の為次の小笠原氏の財政は窮乏、献金、人頭税の賦課、楮・干鰯の専売、石炭・捕鯨事業を促進したが改善出来なかった。最後の藩主長国は長昌の嫡男長行を養嗣子とした。長行は農兵の制や海防策で名声をあげ老中格に昇進、一橋慶喜派の為一旦罷免されたが再任、長州再征、外国事務総裁として兵庫開港等活躍した。後老中を辞職、奥羽列同盟成立と共に会津に、更に五稜郭で戦う。新政府は唐津藩追討も計画したが長国は恭順、石炭献上す。
島原 長崎県島原市城内一丁目 松平忠和(ただかず) 譜代 7 城主 キリシタン大名の有馬晴信は関ヶ原で家康に与し本領安堵、布教活動、朱印船貿易は活発。しかしポルトガル船撃沈に伴う恩賞に絡む本多家家臣岡本大八の賄賂事件で晴信は自害、後継の直純はキリシタン弾圧を徹底できず転封。松倉重政が入封、居城を島原城に移し基礎を整えた。だが幕府からの軍役賦課等の出費に対し次の勝家の苛烈な増徴、これに大凶作が重なり天草四郎を中心とした島原の乱が勃発、勝家は除封。次に高力忠房が入封するも嫡男隆長が農民の反発を招き改易、深溝松平、戸田氏の後再度深溝松平氏が入封。忠恕は農民救済、藩札発行等を図ったが改革中に雲仙岳の大噴火で壊滅的打撃をうけた。忠馮は倹約令の実施、殖産興業策として櫨の栽培、明礬等の生産奨励と共に軍備と教育の強化を図った。幕末慶喜の実弟忠和が襲封、水戸の思想を継ぐ多くの尊攘派家臣を輩出したが将軍実弟として佐幕派の立場から鳥羽伏見まで慎重に対応、戊辰時は新政府側で奥羽に出兵。
大村 長崎県大村市片町 大村純煕(すみひろ) 外様 2.7 城主 キリシタン大名大村純忠はポルトガル船との貿易で勢力を拡大したが秀吉に長崎を没収され打撃を受ける。関ヶ原で家康方に寝返り本領安堵されたが長崎返還されず。この為一族一門の知行地没収、他方蔵米地の拡大で窮乏を克克服。純長の時隠れキリシタンが大量に発覚したが幕府に恭順の意を示し危機を脱した。その後大飢饉もあったが甘藷の普及で凌ぎ、殖産興業策として松島炭鉱の開鉱、陶器業を奨励、又藩校を創設し家臣の教育に務めた。幕末、尊王・佐幕の軋轢はあったが勤王として統一、戊辰時は江戸城無血開城、彰義隊討伐、会津城攻めに功績。
平戸 長崎県平戸市亀岡 松浦詮(あきら) 外様 6.1 城主 南蛮貿易で勢力を拡大した松浦鎮信(法印)は関ヶ原で三成の催促に応ぜず本領安堵。蘭、英とも貿易を拡大したがキリシタン政策から商館が長崎に移され大打撃を受けた。鎮信(天祥)は財政の基礎を地代に転換、蔵米地の拡大、小農民の保護、俸禄制へ転換、総検地の実施、商漁業の振興等を推進した。次の棟は寺社奉行に昇進したが支出増大から財政悪化、この時平戸城が完成した。清は人事刷新、殖産・新田開発、藩校創設による武芸・学問の普及等藩政改革を実施。幕末、外圧に対する防備の強化から大銃隊の編成、台場を築造し様式操銃を訓練した。又大村藩と同盟を締結し公武合体策を推進したが次第に尊王・倒幕に傾斜、鳥羽伏見、奥羽征討に洋銃隊を派兵した。
福江 長崎県福江市福江町 五島盛徳(もりのり) 外様 1.2 城主 五島列島の領主五島純玄、関ヶ原後本領安堵され立藩。次の盛利は兵農分離と家臣の城下集住制を断行、居城石田城を竣工。盛運は緊縮策、上知策、殖産興業に努めて財政再建に成功したが飢饉で再度農村は荒廃した。盛成は鯨、塩、酒、綿等を取り扱う産物会所を設置して収入増を目論んだが長崎奉行を巻き込んだ事件が発生し挫折。最後の盛徳は石田城を再建、幕府最後の公許の海城。大政奉還後、異国船防備費用や薪水供給出費で財政窮迫。
日野江(有馬) 長崎県南高来郡北有馬町 外様 城主 日野江城主、キリシタン大名有馬晴信は大友、大村氏と共に少年使節をローマ法皇に派遣。関ヶ原で家康方に寝返り本領安堵立藩したが”岡本大八事件”で自害。子直純はキリシタン弾圧を徹底できず延岡に転封、廃藩。
平戸新田(平戸館山) 長崎県平戸市 外様 陣屋 平戸藩主松浦鎮信の次男昌、分与うけ立藩したが城下に居所を構え、独立藩の機構もたず。明治に宗家と合併廃藩
対馬 巖原 長崎県下県郡巌原町 宗重正(しげまさ) 外様 10格 城主 対馬島主宗氏は文禄・慶長の役で日朝貿易を無くし収入源を失った。関ヶ原で西軍に与したが安堵、朝鮮との講和を命じられ国交回復に成功、貿易再開し利益も保有された。又通信使使節団の護衛、貿易の管掌と貿易船の派遣の特典を与えられた。次の義成の時朝鮮通交の実権を握っていた柳川調興の外交文書偽造事件が起き以後国書の作成は林羅山が当たった。義真は俸禄制を確立、大身の家臣を城下に集中させ、又大船越瀬戸を開削、佐須銀山を開発。しかし朝鮮との貿易は衰退し幕府からの援助が恒例化した。そして義功の時財政逼迫は極に達し解決策として通信使の儀式を対馬に変更。幕末尊場、佐幕派間の対立は激しく、家老の斬殺事件が起きたが藩論を統一できず王政復古を迎えた。新政府の命で王政復古を告げる使節を派遣したが朝鮮側で拒否、後年の征韓論の種となる。
肥後 熊本(肥後) 熊本県熊本市本丸 細川護久(もりひさ) 外様 54 城主 関が原で家康に与した加藤清正は小西領も併せ太守となり熊本城を改修。又一国一城令後も八代城を島津氏の押さえとして残した。しかし嗣子忠広が忠長絡みの陰謀嫌疑で領地没収され細川忠利が入封。忠利は小物成の1年間免除や手永制による農村支配を行い、又藩政は家老による合議制で運営された。綱利の時江戸風の文化が入り水前寺庭園が出来、相撲がもたらされたが財政も悪化した。藩主宗孝が人違いから江戸城内で板倉勝該に斬殺されている。次の重賢は藩政改革の為質素倹約を旨とし行政機構の改革や刑法典(懲役刑の採用)の作成、藩校の創設、他方櫨蝋の専売、陰田畑の摘発等収入増加を図った。一時改善した財政も天明の飢饉以降悪化し有明海沿岸の干拓や土木事業等実施したが根本的な改善をみなかった。斉護の時横井小楠が台頭し藩政に朱子学の道理の実践を迫ったが受け入れられず小楠は福井藩に招かれた。幕末京都守護や長州征伐に出兵したが中途半端な姿勢に終始。
人吉 熊本県人吉市麓町 相良頼基(よりもと) 外様 2.2 城主 元人吉荘の地頭、相良氏は長毎が関が原で西軍に与したが、のち清兵衛の働きで家康方に転じ本領安堵。人吉城が完成したが次の頼寛の時清兵衛との確執が大きくなり騒動勃発、清兵衛は流罪。頼喬の時城下に水路が開かれ物流に多大な貢献をしたがその後の天災や幕命による負担から財政は悪化の一途をたどった。その間七代頼岑の暗殺計画や次の頼央の暗殺事件が起きている。幕末頼基の時城下の火事により城内の武器の大半が焼失,又洋式の軍制改革を進める家老が斬殺される等多難であったが戊辰時は勤王派が主導権を握り薩摩藩と会津攻撃に参戦した
熊本新田(高瀬) 熊本県玉名市高瀬 外様 陣屋 熊本藩主細川綱利の弟利重は分与うけ新田支藩として立藩。幕末高瀬の町奉行宅を仮藩庁とし改称、後本藩と合併
宇土 熊本県宇土市新小路町 外様 陣屋 熊本藩主細川光尚は従弟行孝に分与立藩。興文は櫨・楮の栽培、蝋の生産を育成、藩校の創設。明治に本藩と合併
富岡 熊本県天草郡岑北町 譜代 城主 寺沢堅高、島原の乱の責任で天草郡収公され、山崎家治が入封立藩したが転封廃藩。その後再検地し農民の負担を軽くし戸田忠昌が入封し再立藩し、城を修築したが後寺社奉行に昇進し転封、廃藩。
日向 高鍋(財部) 宮崎県児湯郡高鍋町上江旧城内 秋月種殷(たねとみ) 外様 2.7 城主 秋月種長(弟は高橋元種)は関が原で西軍から家康方に属し本領安堵、居城を財部(後の高鍋)に移す。種政は地方支配の強化や茶・漆・櫨等の植裁を奨励、種美は家中の子弟を江戸等に遊学させ人材の育成を図り、種茂は新田開発、藩営の紙・朝鮮人参の生産に努め、特に御牧、百姓牧は重要な藩の財源となった。都井の岬馬はその名残。又藩校を創設、弟は米沢藩主上杉鷹山である。最後の種殷は殖産に注力、兵制改革を推進し維新は薩摩藩に同調した
延岡(県 宮崎県延岡市国富 内藤政挙(まさたか) 譜代 7 城主 関が原後高橋元種は松尾城から県城に移り県藩が始まる。が罪人隠匿の罪で改易、有馬直純が入封。清純の時年貢重課と郡代の苛政から農民の逃散事件が発生、不行届の廉で転封。又この時期延岡に改称された。その後は譜代大名に代わり三浦氏、次に牧野氏が入封、農政に注力し岩熊井堰を完成し豊かな水田を造成した。転封後内藤政樹が入封し明治まで在藩した。財政は悪化し銅山の発掘、節約令、禄高の割引、櫨・楮の植裁、紙・蝋等の専売強化等実施したが再建は出来なかった。幕末、討幕の嵐の中で譜代藩として孤立、謹慎となったが薩摩藩の要請で恭順。
佐土原 宮崎県宮崎郡佐土原町上田島 島津忠寛(ただひろ) 外様 2.7 城主 島津豊久は関が原で西軍に与し戦死、代官支配後島津義久の弟以久は入封立藩したが薩摩藩の支藩として宗藩同様の外城制度をとる。久寿の時御家騒動があったが宗家の出兵で収拾、次の惟久の時城主に列せられる。その後も財政は逼迫し紙の専売や家臣の知行割引等実施した。維新時は宗家の討幕運動の先兵の役割を果たし功を挙げた。
飫肥 宮崎県日南市飫肥 伊東裕帰(すけより) 外様 5.1 城主 伊東祐兵、関が原で家康に与し本領安堵。子祐慶は周辺諸藩と和議を結び、又藩内抗争も安定させ秀忠から朱印を受けたが相次ぐ軍役、普請役等が以後の藩財政に影響を与えた。薩摩藩との境界紛争の原因ともなった飫肥杉は貴重な財源であり藩の要となった。幕末祐相は藩校を創設し安井滄洲を招聘、その影響もあり維新時迷わず新政府側。
薩摩 鹿児島(薩摩) 鹿児島県鹿児島市城山町 島津忠義(ただよし) 外様 72.8 城主 関が原で島津義久は西軍に与し、敵前を突破して帰国。家康に対し硬軟交えた外交で所領安堵を獲得。初代家久は鶴丸城を築城、領国内は外城制度により113の郷の武士集落を形成。(郷士制度)又家康の許可を得て琉球を支配、中国との貿易も行った。次の光久は新田開発、金山開発、殖産の拡充に努め財政基盤の強化を図ったが網貴の時鶴丸城、高輪藩邸、芝藩邸が火災に遭い、更に網豊に将軍家よりの輿入れが重なり財政を更に圧迫した。重年の時には木曽三川治水工事を命じられ多大な出費と犠牲を強いられた。重豪は徹底した緊縮政策をとる一方、開明政策を推し進め言語風俗を改め、医学・天文学の藩校も創設した。しかし娘の茂姫が11代将軍の正室になった為幕府より多大な出費を再度強いられた。斉興の時、側用人調所広郷を登用し大商人より踏倒し同然の借金で藩債を整理し国許の債権者は士分に取り立てて帳消し、他方琉球貿易の拡大や国産品の専売制で収奪を強化し再建を果した。調所は密貿易露見の咎で自殺。斉彬も開明的な政策を執り反射炉・溶鉱炉・洋式造船所・ガラス・電信機業を起こす等我国の近代工業の先駆的役割を担った。桜田門外の変後討幕急進派が台頭したが公武合体の立場をとる久光に抑えられた。その帰途の生麦事件から薩英戦争が勃発、攘夷の無益を痛感、進んで西洋文明を吸収しようとの藩論が醸成された。そして討幕に傾き西郷隆盛が藩を舵取り、第一次征長戦後竜馬の周旋で長州藩と同盟、討幕が加速した。
琉球
琉球 沖縄県那覇市首里