日本の城跡

稲村城

遠望
訪問日 H23年 1月
ポイント 小高い丘の上にある。北側に山名川の下流、滝川を自然の堀とし、鏡ヶ浦沖積平野に臨み、国府にも近く枢要の地である。城は山頂を削り、周囲に低い土塁を廻らせ、三方の崖を削って断崖にし、特に南西の南部丘陵と接続するところには堀切を造り、南方の土塁を高くして防禦しやすくしている。
印象 地元の人が城跡を大切にしていることが分かる。案内も丁寧で安心して廻れた。まずびっくりするのは東と西にある水往来という構築物だ。方形に切り取った石を積み上げており、堀切であろう。東と西水往来が繋がり、城山を分断している。中郭にある腰郭群も見ごたえがある他、堀切・土塁・主郭が残っている。中世の豪族の城郭はこの程度の規模だったろうと思われる城だった。
地図
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略史  結城合戦で敗れた里見義実は相模三浦から安房白浜に逃れた。義実は豪族安西氏に寄食、義通の時安西氏の部将として周辺の神余・丸・東条氏を滅ぼし、更に安西氏も押領して安房を統一した。房総里見氏は白浜から千田城に移り、更に稲村に新城を造った。義通が三代となり稲村城主となったが病死、後継の義豊は海上支配に乗り出した叔父の実堯や正木通綱を恐れ、稲村城に実堯・通綱を召還して誅殺した。これに対し実堯の嫡男義堯は造海城に籠ったが、その後父の仇を討つべく宿敵後北条氏の援助を受け反撃した。この戦いで義豊は敗北、滝田城へ撤退後、真里谷城の武田氏を頼って上総に落ち延びた。その後稲村城奪還すべく出撃したが滝田城下の犬掛の戦いで討死した。この内乱で里見氏の嫡流は断絶し、義堯を祖とする後期里見氏がスタートした。稲村城は廃城となり、義堯は滝田城を経て久留里城へ進出した。
東の水往来(堀切) 同・中郭虎口 中郭 西の水往来 中郭腰郭群
中郭櫓台跡の里見氏家臣末裔正木氏を祀った祠
同腰郭
主郭への尾根道(武者走り)
途中の横穴墓
堀切
主郭土塁
同虎口 同内部より
主郭 同土塁 もうひとつの主郭虎口