日本の城跡

佐是城(別称:岳城)

遠望・手前は養老川
訪問日 H22年 1月
ポイント 養老川の流れに立ち向かうかのように聳え立つ独立台地にある。養老川とその支流を外堀にし、北から西側全面を水田に囲まれ、南に115mの山を配して、以南の丘陵との間を狭い谷が入り込んで堀を作り、台地からの侵入を拒んでいる。後ろ堅固の構えである。東西二つの舌状台地を形成して東側に直線連郭を、西側に複郭の城を築いている。主郭部は外郭・三の丸・二の丸・本丸・北の丸で構成され、それぞれが大きな谷を利用した内堀を始め空堀と土塁で防御している。更に谷を越えた北側の台地に土塁で囲んだ外城がある。
印象 ここも迷う。光福禅寺に佐是城跡と表示あり、おや・・と思いつつ寺へ。郭跡や古墳群があり、外城だったらしい。結構深い谷(内堀)を越えた所に主郭があった。妙性院(不在住職)がひっそりと立っていた。ここは北の丸、脇から本丸へ。湧水が本丸の周囲を流れていた。水の手か。本丸は養老川の断崖の上にあるが、結構大きい、土塁・櫓台・武者走り等が残る。北の丸の虎口から内堀に下って行ったが自然の谷を利用した大きな堀だ。川と堀で固めた堅固な城、ここも保存が心配。
地図
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略史  鎌倉時代に佐是四郎や千葉一族の椎名胤隆らがこの地を領した。戦国期に入り、足利成氏の命により武田信長が上総国に侵略を開始し、真理谷・庁南城を落して拠点とした。その子信高の子の国信が佐是に配され築城した。武田氏は古河公方義明をたて、上総・安房の諸将と下総に進出を図ったが北条氏綱軍に敗れ上総に退いた。そして一族の武田信政が北条方に内通した為、里見軍の猛攻を受け、援軍に駆け付けた佐是国信は討死し落城した。以後記録に見られなくなった。
光福禅寺・外城 同参道菩薩 同虎口 同土塁 同曲輪
同櫓台(古墳)
同古墳群
二の丸横の城碑 本丸四の堀跡
本丸
 縄張り
本丸虎口
同櫓台 同より養老川 同犬走り 同四の堀
北の丸虎口土塁・搦手口方面 三の丸 妙性院(北の丸) 北の丸・手前は埋められた内堀 同空堀・土塁
同虎口、内堀へ 内堀 同、自然谷を利用
埋められた内堀と三の丸・二の丸方面