日本の城跡
彦部屋敷
略史 彦部家は7世紀後半天武天皇の皇子・高市親王を祖とする。高市皇子から6代目で臣籍降下し高階姓となり、鎌倉時代に陸奥国紫波郡彦部郷の領主を勤め、彦部姓を名乗った。南北朝期、彦部氏は足利尊氏方として湊川で討死した光高を祖とし、その嫡孫秀通が宗家となり、末は加賀守師光である。秀通の弟忠春は分家し足利将軍の直参として仕えたが、四代孫の晴直は室町末期に、三好・松永の乱で将軍義輝と共に京都御所で討死した。しかし晴直の子、信勝・輝信は事件の前に近衛前嗣に従って関東に下向、近衛氏が帰洛後も、宗家を頼って広沢にとどまった。信勝は金山城主由良成繁から広沢郷に土地を賜り、屋敷を構えて定住した。関ヶ原の役では屋敷から竹竿・旗絹を献納し、桐生領54ヶ村は賦役御免となっている。江戸時代には帰農し、染職を営んだ。特に文化・文政期には黒染技法を習得して黒繻子を織りだすようになり、桐生でも有数な織物の経営者になった。明治時代後半からは本格的に織物業を営み、桐生織物同業組合の組合長になった彦部駒雄を輩出するなど桐生織物の発展に寄与している。 |