日本の城跡

彦部屋敷

長屋門
訪問日 H25年 4月
ポイント 渡良瀬川と八王子丘陵の間、桐生ー太田道の西側、丘陵の脚部に構えられ、背後の手臼山の頂に物見台がある。屋敷は三方に高土居と堀を巡らし、南面に追手、北面東寄りに搦め手虎口が開いている。搦め手虎口には蔀土居があり、石垣で畳まれ狭い蔀郭を形成し、東北角の櫓台、虎口前の引き橋と共に厳重な構えとなっている。更に西に続く土居と堀には折りがあって門前を、追手虎口も西側の折りで守られている。又、西北部には八幡の別郭がある等中世豪族の城館の構えである。建物は長屋門・主屋・隠居室・文庫蔵・穀倉がある他、織物業時代の女工の寄宿舎・医務所なども残っている。
印象 彦部氏子孫という夫人に案内してもらう。茅葺の長屋門・屋敷が並ぶ。主屋に調度、古いお雛様が飾ってあった。国指定史跡になり、整備されている。中世の豪族の館が見事に残るのは珍しい。主屋には天井がなく、茅葺屋根も15年程たち、雨漏れに苦労。夏は涼しいが、冬はかなり寒いらしい。主屋の柱は他家のはりを転用材として使っており、大黒柱のような太い柱が無いのも特徴とのこと。織物業時代の女工の寄宿舎が残り哀愁を感じた。全体としてどっしりとした館跡だった。
地図
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略史  彦部家は7世紀後半天武天皇の皇子・高市親王を祖とする。高市皇子から6代目で臣籍降下し高階姓となり、鎌倉時代に陸奥国紫波郡彦部郷の領主を勤め、彦部姓を名乗った。南北朝期、彦部氏は足利尊氏方として湊川で討死した光高を祖とし、その嫡孫秀通が宗家となり、末は加賀守師光である。秀通の弟忠春は分家し足利将軍の直参として仕えたが、四代孫の晴直は室町末期に、三好・松永の乱で将軍義輝と共に京都御所で討死した。しかし晴直の子、信勝・輝信は事件の前に近衛前嗣に従って関東に下向、近衛氏が帰洛後も、宗家を頼って広沢にとどまった。信勝は金山城主由良成繁から広沢郷に土地を賜り、屋敷を構えて定住した。関ヶ原の役では屋敷から竹竿・旗絹を献納し、桐生領54ヶ村は賦役御免となっている。江戸時代には帰農し、染職を営んだ。特に文化・文政期には黒染技法を習得して黒繻子を織りだすようになり、桐生でも有数な織物の経営者になった。明治時代後半からは本格的に織物業を営み、桐生織物同業組合の組合長になった彦部駒雄を輩出するなど桐生織物の発展に寄与している。
遠望 南東角石垣・隠居室 長屋門 同内側から
隠居室 主屋 同奥座敷 同・背後は詰の城(手臼山砦) 北側土塁
同土塁・堀 関ヶ原の役に旗竿用に献上した竹 北側土塁から搦め手引き橋を見る 北西角にある八幡郭
北側土塁・堀 西側土塁・堀 八幡郭と主郭間の堀と石橋 西側の手臼山につながる郭 女工寄宿舎・主屋
女工寄宿舎 庭園 搦め手門・北東隅櫓台 同・土塁
同・石垣・しとみ郭 同虎口 同土塁・堀 同の引き橋・堀 同前の外郭
北東隅櫓台 東側土塁・堀 南側外郭・手臼山砦・左に加賀屋敷跡