日本の城跡
平井城
略史 1438年、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実との抗争で、憲実は難を逃れるべく総社の長尾忠房に築かせた平井城に入った。持氏はこれを追って武州高安寺に馬を進め、一色直兼らに平井を攻めさせたが、伏勢に遭い撃破された。憲実は京都の幕府に持氏の非を訴えた為、幕府は今川・朝倉・北国の上杉勢を憲実救援に派遣した。更に幕軍主力の上杉憲直が、持氏を早川尻で破り、持氏は鎌倉入城も果たせず永安寺で自決した。しかし、その後も持氏の子、古河公方成氏と平井城を本拠とした関東管領上杉氏との抗争は続いた。上杉房顕の陣没後、後継として越後から入った上杉顕定は平井城を大改修して関東管領府とし、京都文化を直接流入して華を咲かせた。顕定は兄の越後守護職上杉房能が守護代長尾為景に滅ぼされた為、嗣子の憲房と共に越後に入り為景を討ったが、翌年反撃に遭って敗死し、憲房は平井に戻った。この頃、小田原の北条氏が台頭、江戸・川越に進出し、扇谷上杉の領地を浸食しだした。この為憲房の後継、憲政は扇谷上杉氏を助けるべく、川越付近に兵を出して数年にわたって北条氏綱・氏康と死闘を繰り返した結果、1546年の決戦で敗れ北条氏の優勢が決定的となった。そして氏康は平井城を落すべく兵を進めてきたため、上杉方の太田資正・長野業政らは大いに奮戦し、一時は北条方を浮足ださせたが北条康成らの助成で形勢は逆転し北条の勝利となった。この為憲政は予てより交渉を重ねていた越後の長尾景虎(後の謙信)のもとに走り、平井城は北条氏の手に帰した。翌年、景虎は家臣の庄田・平子・宇佐美の諸将らに平井城を奪還させたが、平井は越後から関東に進出する足がかりには適当でなく、拠点を厩橋城に置いた為破却させた。 |