日本の城跡
荏田城
(別称:荏田城山)
遠望
訪問日
H30年 5月
ポイント
城の東を古鎌倉街道が通り、南を矢倉沢往還(大山道)が通る要衝。城の北東にある観福寺近くの山は敵見塚と言われ、鎌倉街道を両側から押さえていたと思われる。早瀬川支流の布川とその支流の赤田川に挟まれた舌状台地の端を利用して築城。主郭と西郭からなる連郭式の縄張りであり、二つの郭は空堀で囲まれ、土橋で繋がっている。
印象
遺構の保存状態は良いようだが、私有地で地主の意向により全面的に柵がされ、立ち入りが出来ない。残念だ。ただ近くの茅ヶ崎城も従前は同じように立ち入り禁止だったが、現在は整備され立派な城跡を堪能している。将来に希望。
地図
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略史 平安時代、源義経に仕えた江田(荏田)源三広基の居城であったと言われ、麓の小黒谷の地名は、源三が義経から賜った名馬「小黒」をつないだ厩があったことによる。ただ、武蔵七党の一つである綴党の荏田氏を城主とする説もある。戦国時代には後北条氏の城の一つであり、茅ヶ崎城や榎下城とともに小机城の支城であったが、後北条氏の滅亡とともに廃城になった。
北側から突入を企てたが柵で阻止された
外側のみ
堀跡