日本の城跡

浄福寺城(別称:案下城・千手山城・松竹城)

堀切
訪問日 H25年 2月
ポイント 甲斐に通じる案下古道(陣馬街道)を眼下に押さえる、大石氏が開山した浄福寺の裏山が城跡。主郭を最高所に置き、そこから派生する複数の痩せ尾根に堀切で断ち切って郭を配置した典型的山城の縄張り。特に北東尾根は厳重で、大規模な堀切を設けて尾根を分断し、更に尾根から分岐する部分に二重堀切や畝状竪堀で固めている。
印象 居館跡という浄福寺の駐車場を借りる。急斜面の山で登城口を見つけるのに少しうろうろ。白山神社の裏手から登頂、途中の観音堂まではスムーズに行けたが、そこからが大変だった。両側が崖になっている急坂をひたすら上る。途中、何度か止めようかと思ったが、いくつかの小郭を過ぎて、やっと堀切に囲まれた主郭に。広くはない。更に北へ行くと二つの堀切があり、その先に郭があった。そしてその先に連続堀切がある。東斜面には竪堀もあり、北尾根側が厚い防禦設備で固めていた。しかしこんな険しい山に本当に城を構えていたのかと疑問にも思えてしまった。無数の堀切や竪堀など、戦闘用の中世山城を満喫できる城ではあった。
地図
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略史  室町時代初期に木曽義仲の後裔といわれる大石信重が築城し二宮城から移り、その後高月城が造られるまで大石氏の居城であった。戦国期、大石定久は小田原北条氏の軍門に下り、北条氏康の次男氏照を養子に迎えて当主の座を譲った。以後氏照に率いられた大石氏を中心とする軍団・滝山衆は北条氏きっての強力兵団として北関東制圧に奮戦した。しかし北条氏照が築いた八王子城の北の防衛拠点として整備されたが、小田原の役で八王子城と運命を共にした。
居館跡の浄福寺 同内の白山神社
急斜面の城山 登城坂 同付近から下に流れる北浅川方面 中腹の観音堂郭
いよいよ主郭へ 急崖 小郭 痩せ尾根道 小郭
痩せ尾根道 土橋 堀切 登城坂
更に続く
堀切 小郭 主郭下腰郭の切岸 主郭へ
主郭下の腰郭 主郭切岸 主郭帯郭 主郭腰郭
主郭虎口 主郭 主郭腰郭 主郭土塁 主郭帯郭
主郭腰郭切岸 北側の堀切 同堀切の急崖 北側に続く郭
同先の堀切・小郭 同堀切 小郭から振返る 同小郭の先の二重堀
同脇の畝状竪堀 北東に延びる尾根の堀切