日本の城跡

勝沼城(別称:師岡城)

二郭と腰郭間の横堀
訪問日 H24年 6月
ポイント 城は加治丘陵の一支脈の先端部に位置する。要害地形ではないが、多摩川を外堀に、周囲は湿地に囲まれている。縄張りは主郭・二郭・三郭・腰郭等からなる。主郭を中央に配置し、その東側に二郭を、西北に三郭を置いた直線連郭式。三つの郭とも、平地を望む南面は深い空堀と高い土塁で守られているが、湿地帯を挟んで丘陵状の山林を背にする北面は、南面ほどの土塁や空堀は造られていない。緩傾斜地を城内に取り込み、その外側の湿地帯にある谷川を第二の防禦線としている。当城の縄張りは単純なものであるが、角馬出しや横堀の用い方からして後北条流の改造が行われたことが分かる。
印象 光明寺・妙光院裏山一体。車の駐車に苦労、光明寺の墓地に停めさせてもらう。結構広い、要害ではないが堀・堀切・横堀・土塁等がしっかりしており、更に北側は菖蒲園があるように湿地帯であったらしい。主郭と二郭は良く残っているが、三郭は完全に墓地になって改変されており残念。6月の登城で草が生い茂り、比較的平坦な郭だけに分りにくい部分があった。冬の登城が最適。兵站基地としては良いが、戦う城ではない印象。
地図
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略史  築城時期、築城者の詳細は不明だが、鎌倉時代から代々続いていた、平将門の後胤と称する三田氏が居城し多摩川上流地域を領していた。戦国時代、関東の覇権が後北条氏に移っていく過程で、三田氏は山内上杉氏から後北条氏の配下となった。しかし上杉謙信の関東侵攻に及び、三田氏は再び上杉派を標榜した。この為滝山城主北条氏照によって攻撃され落城、三田氏は滅亡した。その後氏照の家臣師岡将影が入城し、城を改修したが、豊臣秀吉の小田原征討により、八王子城の落城と共に当城も廃城となった。
主郭方面(光明寺墓地)
三郭横
三郭南下の外郭
三郭北側谷戸
三郭北の腰郭(入口付近)
三郭と腰郭間の堀切
三郭の腰郭土塁
北側谷戸、先に菖蒲園
三郭・主郭間の堀
三郭への土橋
虎口
主郭横堀
三郭前部分
三郭後部分・土塁
三郭西虎口から横堀
三郭から横堀
三郭北虎口方面
同北虎口
同虎口の先から振り替える
三郭先の腰郭への土橋
同の堀切
同の腰郭(入口付近)
三郭横堀
同横堀外側土塁
同横堀から見た三郭土塁
同横堀
主郭横堀
主郭
主郭虎口・土塁
主郭虎口・土塁
主郭
主郭東下の帯郭
同から見た主郭土塁
同帯郭・土橋
同土橋上から腰郭
主郭帯郭と二郭腰郭間の横堀
二郭と腰郭間の堀切
同腰郭
二郭(妙光院墓地)
主郭土塁
主郭北側の竪堀
遠望・光明寺裏の墓地上に主郭