日本の城跡

鎌倉城

鎌倉八幡宮
訪問日 多数
ポイント 馬蹄形に連丘で囲まれた都城の地形。範囲は稲村ヶ崎から極楽寺切通、大仏切通、葛原岡、亀ヶ谷切通、巨福呂坂切通、鷲峯山、朝比奈切通、天台山、名越切通を経て飯島崎に至る丘陵に三方を囲まれ、一方は相模湾に面する。七ヶ所の切通は強力な防禦施設で鎌倉を巡る戦いは常に各切通を中心に行われた。特に名越の切通の外側には800m.に亘り切岸が三浦氏の攻撃を恐れた北条氏によって築かれている。しかしこの鎌倉城も南北朝に至ると、戦法の変化から弱点を攻められ、以後鎌倉城をめぐる攻防戦はなくなった。
印象 自宅が近く、鎌倉には多数訪問している。我家は初詣から一年をスタートする。京都・奈良に比較し一回りこじんまりしていて見易い。建長寺・円覚寺やあじさい寺・竹の寺等楽しい。更に名越・朝比奈等の七つの切通、絶壁の切岸、釈迦堂の切通もすばらしい。鎌倉観音33ヶ所めぐりもある。これからも機会を見つけて行きたい所だ。
地図
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略史  保元の乱に敗れた源為朝が東国に下向して関東の武士を招集し、平将門にならって関東に新国家を建設する事を提言、その本拠地として鎌倉を挙げている。源頼朝は源氏のゆかりの地であり、又房総の千葉常胤の進言もあった為鎌倉に幕府を開いた。鎌倉幕府は切通を破れず稲村ヶ崎の海岸を通った新田義貞による攻撃で、北条高時が自殺し滅亡した。その後、建武中興で北畠顕家軍が朝比奈切通を通り杉本城を守備していた斯波家長を敗り、足利義詮がいた鎌倉城は落城した。更に鎌倉にいた初代鎌倉公方足利基氏を新田義興軍が攻め落城し、都合三回の戦いでいずれも守備側の敗北に終わっている。
鎌倉宮
西御門
建長寺
光明寺
                                         
極楽寺坂の切通し
                                       
大仏坂の切通し
                         
化粧坂の切通し
                       
亀ヶ谷坂の切通し
                                      
巨福呂坂の切通し
                                       
 朝比奈の切通し
                                     
名越坂の切通し
名越坂の切通し
                                       
まんだら堂跡
                                      
名越坂切通し近くの石塔
お猿畠の大切岸
法性寺奥の院
                                      
釈迦堂の切通し
                                       
大蔵幕府跡
 扇谷上杉氏、上杉朝定・氏憲邸跡
    
勝長寿院(北条政子・実朝墓所)
 
足利公方足利持氏の墓
  
極楽寺近くの山内上杉憲方の墓
 太田道灌邸(英勝寺)
八幡様の大銀杏が倒木(H22年3月)