日本の城跡

足利氏館(別称:鑁阿寺館)

 訪問日  H26年 3月
 ポイント 館は四万五千㎡の方形館で四方を大規模に堀と土塁で囲んでいる。 南方の渡良瀬川を天然の要害とし、後方の両崖山を詰の城とする典型的な鎌倉初期の武家屋敷である。
 印象  鎌倉学校の裏手の鑁阿寺が館跡。ほぼ形状は昔のままに残る貴重な鎌倉武士の館跡である。単郭方形で周囲は土塁と水堀で固めている。楼門を除く三つの門は昔と同じようだ。ほかの建物は寺の本堂・経堂・不動堂・多宝堂等で、館の遺構はなかった。境内の規模も大きく、堂々とした風格であった。
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略史  平安末期、八幡太郎源義家の子、源義国は北関東に勢力を拡大し、足利荘を成立させた。義家の孫、義康が足利に居館を構えて足利氏(源姓足利氏)を称した。二代目の義兼は源頼朝の挙兵にいち早く参陣し活躍した。更に北条時政の娘で政子の妹、時子を娶り足利荘を安堵され、鎌倉幕府の重臣となった。義兼はその後出家し、法名を鑁阿と称し邸内に持仏堂を建て、三代目義氏が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺とした。更に義氏が寺院として規模を整え、館から寺へ変貌した。鑁阿寺の興隆に伴い、足利氏は両崖山城を本拠とした。なお尊氏は義氏の五代後の棟梁である。

太鼓橋・楼門(山門)

同付近の土塁・水堀


東側の土塁・水堀

楼門(山門)

鐘楼

大御堂


同から楼門を

大御堂の彫り物

多宝堂・銀杏の大木

経堂・不動堂

不動堂

石橋

東門

北門

西門

同付近の土塁

同土塁・水堀

西側の土塁・水堀

北側の土塁・水堀

足利尊氏像

同石畳みの

同にある旧家

同にある蔵

同付近の大谷石作りの建物