日本の城跡

西方城(別称:西堀山城・鶴ヶ岡城)

遠望・手前の小山が二条城
訪問日 H23年10月
ポイント 西方城は関東平野に突き出た足尾山地の東端に位置し、南北500mの尾根を削平した直線連郭と東側に張り出した東郭からなる城郭。各郭とも大きく、周囲は土塁を巡らせ、各郭間には桝形状の虎口、堀切、竪堀、土橋等で固めている。更に横矢攻撃が出来ようにS字道やクランク道を多用した戦国期縄張り。
印象 立派な山城で遺構も良く残っていた。道に迷い、西の丸を取り込んだゴルフ場で聞く。3時すぎになってしまい、長徳寺の駐車場から薄暗い山道を小走りに登る。途中、竹林の中に横堀・曲輪らしきものを発見。更に竪堀の堀底道を直登す、疲れた。まず北の丸へ、馬出し、堀切がある。次に四・三・二・主郭と続く。それぞれ土塁・虎口・堀切等防禦されている。その後南郭・井戸・東郭を見る。戦国期を生き抜いてきた城らしく戦略性の高い城だ。もっとゆっくり見なければいけない城。
地図
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略史  築城時期は不明だが、鎌倉中期に宇都宮景綱の三男の景泰が西方に分知築城したとも。その後、景泰の家系は西方氏と称し、宇都宮氏の西領を守る境の城の役目を果たした。戦国期には小田原北条氏が川越夜戦以後、北関東に進出、更に越後の長尾景虎が関東管領上杉憲政の要請を受け関東に出兵する中で、宇都宮氏は上杉・佐竹氏と同盟して北条氏に対抗した。戦国末期には隣国皆川氏が北条氏の攻撃を受け降伏、西方城も落城した。しかし、佐竹氏の支援を受けた宇都宮氏は皆川領に侵攻して西方城の奪還に成功した。豊臣秀吉の小田原征討の時、宇都宮氏は本領を安堵されたが、7年後突然改易され西方城は廃城となった。
山麓の長徳寺 登城口
曲輪跡
横堀 炭焼き釜
池か堀跡
竪堀
北郭と馬出し間の堀切
北郭より馬出しをみる 北郭虎口 広い北郭
同櫓台
北郭の腰曲輪
北二郭の土塁 北郭と北二郭間の竪堀
北二郭桝形虎口 北二郭虎口土塁・小郭 北二郭虎口 北二郭
北一郭への土橋
同空堀
北一郭
同土塁(物見台)
二郭への土橋
同堀切
二郭虎口 二郭
同竪堀
二郭土塁・物見台? 主郭土塁 同虎口 主郭
同南虎口を下がる
主郭櫓台
張り出し1、横矢
張り出し2、横矢
同虎口
同下から
下の桝形虎口
南郭北側虎口
同虎口の空堀
南郭
同竪堀
南郭より張り出し2方面を見る
桝形虎口の東郭方面虎口
同反対側より
東郭方面・左下に井戸跡
虎口
腰郭虎口土塁
主郭下の腰郭
西方城手前の二条城城塁
赤壁城側から見た西方城遠望