日本の城跡

土気城

二の丸から本丸方面
訪問日 H 4年11月, H20年 9月
ポイント 千葉市の東南端の台地にあり、東は崖下に渓谷を見下ろし、南から西の台地は各方面に流れる分水嶺となり複雑な地形をなし、北は深谷を望む天険の地。後北条氏を始めとする諸勢の攻撃に対し天険に加え、空掘り・土塁を巧みに配し堅城ぶりを発揮した。又、聖武天皇の時代、鎮守府将軍大野東人が対蝦夷の軍事拠点としてこの地に城砦を築いたと言われる古くからの要衝であった。
印象 日本航空研修センターが建っていた為、急いでみてしまい遺構を良く確認出来なかった。次回必ず見たい城。再訪す。研修センターは閉鎖していたが管理人に頼み研修センター脇の、本丸へ。本丸は完全に整地され、遺構は無し。本丸の外側から挑戦すれば良かったか。今回は特に大手門に当たる貴船神社周辺、三の丸を探索した。
地図
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略史  室町時代、相馬胤網の次子土気太郎が地頭となり当城に拠った。その後酒井定隆によって攻め取られ、以降酒井氏の五代百年の居城となった。定隆は若い時、鎌倉公方足利成氏に仕えたが、関東管領上杉方との戦いに敗れ成氏に従い古河に逃れた。その後里見氏、原氏を頼った後、臼井の戦いでの戦功で原氏の支援を受け、先のように土気城主となった。戦国時代、後北条氏が勢力拡大する中、里見勢を主力とする房総諸勢が対抗したが大敗に終わった。こうした中、越後の上杉謙信が関東に進出、酒井氏は一時、千葉氏に従い謙信と戦い敗れた。しかし後北条氏の土気城攻撃に際して謙信に救援を要請し危急を脱した。その後北条氏の説得で結局、北条氏に帰順したが豊臣秀吉の小田原征討の前に力尽き、浅野長政に城を明け渡し廃城となった。
二の丸・一の堀
貴船神社・大手門
貴船神社・土気古城・土気城大手門
三の堀
三の丸
二の丸方面
二の堀
二の丸
本丸方面
本丸
同・城碑

                 上記は20年 9月訪問分