日本の城跡

慈恩寺

山門
訪問日 H22年 8月
ポイント 慈恩寺は弥勒堂を中心に最上院・宝蔵院・華蔵院の三か院、それに付属する48坊からなる一山組織であったが、現在は三か院17坊である。慈恩寺は摂関家藤原氏の荘寺的性格の寺院であった為、京文化が直接入ってきた。阿弥陀如来を初め、30体を超える仏像は中央で造られた優れもの。鎌倉以降の仏像も中央仏師によるもので、その規模と歴史的価値は平泉中尊寺に並ぶものである。寺領は荘園主の藤原氏から寄進され、更に大江氏からも寄進があったり等で江戸時代には寺領は18ヶ村にまたがり、御朱印高は2812石余を与えられ東北随一であった。そして多くの子院を有し、東北に置ける真言、天台宗の中心的寺院であった。
印象 初めての訪問で楽しみにしていた。厚い萱ぶきの屋根がその歴史の重さを感じさせる。本堂・薬師堂には国宝級の仏像が安置され、丁寧に説明を受けた。素晴らしかった。その他、山門に圧倒され、毅然と立つ三重塔に見惚れた。今回は見られなかったが、無形文化財の慈恩寺舞楽が必見らしい。
地図
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略史  聖武天皇の勅命により、印度僧婆羅門僧正が天平十八年(746)精舎を建立して開基したとの寺伝。1151年頃、興福寺の僧願西上人が本願となり来山、これは興福寺が藤原氏の氏寺であったから派遣されたもの。興福寺は法相の寺で、慈恩寺という寺号も法相宗の祖慈恩大師からきたもの。そのころから法相の寺院であり弥勒菩薩を本尊としたが、平安後期には天台宗の影響もあった。しかし鎌倉初期には後白河院の院宣をもって弘俊阿砂利闍梨が来山して正式に真言宗が入った。室町時代には時宗の宝徳寺が入る等、真言が主流であったが法相、天台、真言、時宗と多くの宗旨が併存し、一宗に統一することはなかった。権力者の大江氏が滅亡し、最上氏が庇護を加え、三重塔・本堂を建築した。江戸期に入り最上氏が改易されると別当坊最上院は天海僧正に取り入って天台宗に改宗しようとして、真言方の宝蔵院・華蔵院と長年に亘り抗争を続けた。結果、最上院は天台宗に改宗し、慈恩寺は天台・真言両派兼学の一山となった。終戦後、一山は宗教法人として独立し、本山慈恩寺を名乗り、慈恩宗となっている。
本堂(弥勒堂) 薬師堂    三重塔 華蔵院