日本の城跡

羽州街道(西馬音内・院内・金山宿・最上川)

万宝院長屋門(金山城大手門移築)
訪問日 H22年 8月
ポイント 西馬音内盆踊り・・・大正年間に警察から”風俗を乱す”として弾圧もあった。野性的なお囃子に対し、優雅で哀調漂う上方風の美しい踊りが対照的で、本来、娯楽の踊りではなかったのでは。院内銀山・・・江戸時代中期の最盛期には、人口15千人を擁し、藩内一の街となり”出羽の都”と呼ばれた。明治に払い下げを受けた古河市兵衛は近代的な鉱山経営を実施し、産出量を増やし、院内のほか東北の多くの鉱山を経営し、その利益を元手に足尾銅山を買収、古河財閥を創設した。金山宿・・・ここからは秋田県まで森合峠・主寝坂峠・雄勝峠と厳しい峠が続く為、参勤交代する秋田・津軽の諸大名は必ず宿泊、本陣、脇本陣が置かれた。また維新時には新政府側の秋田藩と仙台藩兵が激しく戦った地。現在も町の4分の3は森林が占め、金山杉で有名。”杉の美林が失われる”という理由で奥羽本線の敷設拒否し、村制施行以来町域の変更なく、昭和・平成の大合併でも合併の流れに加わらなかったことが町の誇り。芭蕉乗船の地・・・”五月雨を集めて早し最上川”の碑あり。
印象 西馬音内盆踊りは二回目。前回に比べ、規模が大きくなっていた。踊り手の質が少し荒くなっている感じだが、その妖艶さは印象深い。院内銀山は閉山しており、資料館も早く行った為閉館中、残念。関所も国道の脇に追いやられて寂しそう。金山宿は鉄道の敷設を反対するほど、杉と町を守った為、宿場の雰囲気が残っていた。町並み、杉の橋など木の匂いのする町だ。資料館で昔の金山町とその住民の写真が飾られていた。自分の昔の写真を見ているようで懐かしかった。ゆったりと流れる最上川はいつ見ても心が和む。
地図
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略史  西馬音内盆踊り・・・・13世紀末、修行僧源親が、蔵王権現、現在の西馬音内御嶽神社を勧請し、境内で豊年祈願として躍らせた。これが関ヶ原後、城主小野寺茂道一族が滅び、土着した遺臣達が君主を偲んで宝泉寺境内で行われた亡者踊りと合流したもの。  院内銀山・・・・1606年村山宗兵衛らによって発見、開山した。1617年にローマで作成された地図にも地名が記されるほど、金および銀を産出し、江戸時代を通じ日本最大の銀山で、久保田藩の財政を支えた。明治に入り、経営権は工部省、小野組、古河市兵衛に移り、古河は銀山の近代化を進め最新式掘削機器に加え、ドイツ人技術者の採用等行った。このドイツ人技師の赤レンガ造りの住居を模して造られたのがJR院内駅に併設された院内銀山異人館、郷土資料館である。  院内関所・・・・佐竹氏が久保田移封された関ヶ原後、杉峠を開削して羽州街道とした。1608年に院内城代の矢田野義正によって関所が設けられた。主として浪人者の取り締まりと院内銀山の警備が重要な役目であった。  金山宿・・・・羽州街道は福島県の桑折で奥州街道と分かれ、七ヶ宿から金山峠を越えて山形に入り、上山、山形、新庄、金山を経て秋田県の院内、横手、大館、弘前、青森に至る宿駅五十八次の奥羽山脈の西側を縦貫する幹線街道。金山は羽州街道の新庄藩北端の宿場として重要な地であった。金山は古来より出羽国を繋ぐ重要地で、8世紀大野東人の東征後、多賀城から秋田城へ向かう官道が開削され、駅が設置された。戦国時代、最上義光が金山城を築城、小野寺氏攻めの最前線となったが、江戸時代には宿場町として栄えた。  芭蕉乗船の地・・・・この新庄の本合海はかって最上と庄内間に陸路がなかった時代、舟運の中継地として栄えた。松尾芭蕉もここから乗船し、庄内に向かった。
     西馬音内盆踊り     同    同   同
院内関所 院内銀山異人館
金山宿 同・金山杉の木造橋
旧羽州街道 最上川・芭蕉乗船地

           西馬音内地図           院内銀山異人館           芭蕉乗船の地