日本の城跡

伊東家廟所


伊東家廟所
訪問日 H29年12月
ポイント 石垣で一段高く築かれた墓域には、義祐はじめ飫肥藩初代藩主祐兵以下歴代藩主の墓がある。また歴代藩主夫人の墓14基の他、殉死した家臣の墓8基等がある。累代墓地の北側には、一族の伊東左門家や旧報恩寺住職、小村寿太郎や伊東家に関わりの深い人々の墓がある。また地形を活かした庭園は独自の意匠をよく伝え、近世の南九州地方の造園文化の発展に寄与した。
印象 墓所には小村寿太郎らの墓もあり、きちんと整備され旧藩主家の威容が保たれている。また神社脇には庭園があり、厳かな雰囲気が醸し出されていた。ただ訪れる人は少なそうだった。
地図
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略史  当墓所は飫肥藩伊東家の菩提寺であった、旧報恩寺の墓に位置する。戦国大名となった伊東義祐は、一時日向国一国を治めるまで勢力を伸ばしたが、島津氏との闘争に敗れ、伊東義祐・祐兵親子は縁戚である大友宗麟を頼った。しかし大友氏も島津氏との耳川の戦いに惨敗した為、伊東親子は伊予に渡った。祐兵はそこで伊東家に出入りしていた山伏の紹介で秀吉に出仕できたが、父の義祐は縁なく大阪堺で病没した。祐兵はその後、明智氏との山崎の合戦で軍功を挙げ、更に秀吉の九州征伐では道案内を兼ねた先鋒を務め、旧領飫肥に大名復帰を果たした。関ケ原の戦いでは大阪で病に臥せていたが、黒田如水を通じて家康と通じ、また嫡男祐慶を飫肥に送り、西軍方の高橋元種の城・宮崎城を攻め落とさせた。こうして飫肥藩伊東家は5万1080石の大名として、13代祐相の時に明治維新を迎えた。菩提寺は国許は旧報恩寺、江戸では品川の東禅寺である。旧報恩寺は臨済宗の寺院で、明治5年に廃絶、その後伊東氏の氏神八幡社が建立された。

伊東家廟所



廟所を守る仁王像

神社庭園