日本の城跡

佐土原城(別称:鶴松城・田島之城)


天守台跡
訪問日 H29年12月
ポイント 城は鶴松山と呼ばれる小山を利用した山城で、北に一ツ瀬川が流れる地にある。北西に峻険な山を負い、南西と北西に池や堀を巡らせている。南北二つの山塊の、南に延びる主尾根筋の北に本丸、その南に南ノ城(伊東義祐時代の城)、更に南に松尾丸(田島休助時代の城)を配している。各曲輪は堀と土塁で区画されている。江戸期の島津以久の時代に、島津氏では唯一の天守を本丸に隣接する殿司丸に築造している。その後、山上の天守・御殿などを取り壊し、麓の平坦部に二の丸を造り、堀で周囲を固めて居館を移した。以後佐土原藩の政庁として明治まで機能した。
印象 駐車場前に、立派な復元二の丸御殿にびっくりしたが、土日のみ開館というのに、またびっくりだ。御殿の裏手から大手の堀底道を上る。結構長く、しかも狭く深い為、寄せ手には辛い道だ。その後松尾丸を目指したが、途中の尾根道は孟宗竹に覆われ、行けなくなる恐れあり。戻って南ノ城を見て本丸へ。結構広く、堀や土塁の痕跡もあった。奥の殿司丸で石垣の天守台を見たが、それほど感激しなかった。江戸期、幕府から佐土原に領地を貰い、天守を作ってみたが、島津宗家との関係もあり、取り壊したのかな 思った。帰りは中道を下りる予定だったが、道が危険で大手で帰る。御殿の立派さに比べ、山城の整備が遅れており残念。
地図

略史  城は建武年間(1334年頃)、伊東氏の一族田島休助が、現在地より海寄りの地に築城したが、1427年頃に日向国に勢力を伸ばしてきた宗家の伊東氏が、田島氏を追い入城し、城は現在の場所に移された。そして戦国期、伊東義祐が都於郡城から移って城主となり、伊東48城の要の城として整備された。しかし日向国支配をかけて戦った、木崎原の戦いで島津義久に大敗した伊東氏は、豊後の大友氏を頼って日向を去り、当城には義久の弟、家久が入城し、日向支配の拠点とした。豊臣秀吉の九州平定で、島津氏は敗れて秀吉の傘下となるが、佐土原は家久に安堵された。家久死後、子の豊久が後継となったが、豊久も関ケ原の役で戦死した為、佐土原は一時幕領となった。3年後、島津以久が3万石で入封、薩摩藩の支藩として宗家同様、外城制度をとった。久寿の時、お家騒動があったが、宗家の出兵で収拾した。財政は逼迫し、紙の専売や家臣の知行割引等を実施した。維新時、宗家の討幕運動の先兵として役割を果たし、功を上げた。

二の丸・藩庁跡

二の丸復元御殿・鶴松館

二の丸藩庁跡

湿地・池・堀跡

大手道・堀底道


今度は急崖

また堀底道


急崖の下に今坂池

堀底道

今にも堀底道の上から攻撃を受けそう

堀底道

松尾丸への分岐・堀切

松尾丸へ

孟宗竹の林を

尾根筋を行く

とにかく行く

1人では怖い

堀切か

そろそろ

松尾丸に到着


土塁

戻る



南ノ城切岸

切岸

本丸手前の曲輪

同・空堀

竪堀

本丸虎口へ


本丸虎口

同内部より

本丸空堀


本丸

本丸から天守台方向

天守台から本丸方向

本丸腰郭

天守台(殿司丸)


殿司丸空堀

本丸下の曲輪

搦手口への道

南ノ城空堀

南ノ城土塁

南ノ城虎口

同虎口内部より

南ノ城


同土塁

同土塁

同急崖

東屋がある曲輪方面

本丸下の堀切

井戸跡