日本の城跡

高鍋城(別称:財部城・舞鶴城)

三の丸堀からの遠望
訪問日 H14年 9月
ポイント 北に小丸川、南にその支流の小浪川が流れ、東は日向灘が控え、西に丘地をを負った標高73mの丘陵に位置している。山頂の本丸付近は中世の山城の形態を残し、階段状の曲輪・堀切・土塁と一部石垣で固めた。山麓の岩坂門内は二の丸で石垣があり、平地の三の丸は水堀で固めている。秋月家は代々、文官・学者を生んだ家柄で、七代種茂は藩校明倫堂を開校、明治維新後活躍した多くの逸材が輩出した。
印象 本丸周辺はあまり整備されていなく、わかりにくい部分があるが、山麓の二の丸には立派な石垣や大手門跡や堀の一部、土塁が残っている。また舞鶴神社が鎮座し、樹齢500年の楠がどっしり構えていた。三の丸は高鍋農高になっているが、周囲を水濠が巡り、町民の憩いの散歩道になっていた。
地図
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略史  財部土持氏の居城。土持氏は田部氏の一族で豊前宇佐神宮の神官であったが、神領たる荘園の管理や拡大に活躍し、平安時代以来県庄を中心に土持七頭があって日向を治めた。財部土持氏も七頭の一つで勢力を伸ばしたが、伊東氏と戦って敗れ滅亡した。城は伊東氏が有し、伊東四十八城の一つとなった。その後島津氏の有となったが豊臣秀吉の九州征伐後、秋月種実が新納・櫛間と木脇を有して日向に来たが櫛間に居住した。関ヶ原では東軍に与した為本領安堵され、種長の時、財部城を修築して移り、更に三代種信が大改修して近世城郭とし、同時に高鍋と改称した。種政は地方支配の強化や茶・漆・櫨の植栽を奨励、種美は家中の子弟を江戸等に遊学させ人材の育成を図り、種茂は新田開発、藩営の紙・朝鮮人参の生産に努め、特に御牧、百姓牧は重要な藩の財源となった。都井の岬馬はその名残り。また藩校を創設、弟は米沢藩主、上杉鷹山である。最後の種殷は殖産に注力、兵制改革を推進し、維新時は薩摩藩に同調した。
二の丸岩坂門石垣
二の丸へ
二の丸・鶴舞神社
本丸政庁案内
本丸・政庁跡
詰丸・三重櫓台
詰丸
同石垣
三の丸水堀・左が三の丸(高鍋農高)