日本の城跡

都於郡城(別称:浮舟城)


本丸と二の丸間の大堀切
訪問日 H29年12月
ポイント 城は急峻な崖地形に囲まれた台地に位置し、北から西に流れる三財川が天然の堀の役目を果たし、河川が形成する沼地が周囲に広がる要地であった。遠目には船が浮いて見える為、「浮舟城」とも呼ばれた。縄張りは本丸・奥の城・二の丸・三の丸・西の城からなり、各曲輪は深い空堀、切岸に区画され、枡形虎口や土塁で固めている。またこの本城を囲んで、近くの丘に東城・日隠城・高城等支城群が配され、その間に堀や馬場や寺院神社を置いた要塞地帯を形成している。日向の中世式城郭の代表である。
印象 この城は同じシラス台地に築城されているが、綺麗に整備され、見通しが良いせいか、すっきりして気持ちよく回れた。とにかく見事な城だ。深く広い空堀にびっくりしたが、急峻な切岸には圧倒された。一つ一つの曲輪は大きく、独立しており、土塁・虎口等防御施設は堅く、攻撃側は苦労するだろう。しかしここも守備側の兵力も多数必要で、大軍に攻められると、独立しているだけに一つ一つ落とされるだろうなと感じた。ツアーの最後に都於郡城を見られて、晴れやかに帰れた。地元の人に感謝!
地図

略史  鎌倉時代、工藤祐経は日向国の地頭職に任ぜられた。祐経は曽我兄弟に討たれるが、遺領は子孫に継承され、代官が治めていた。南北朝期、祐経の嫡男・伊東祐時から6代目の祐持は、足利尊氏に従って軍功を挙げ、都於郡に所領を与えられ、日向伊東氏初代として入部、築城した。2代目裕重が山城として改修、その後当城を拠点に、伊東氏は240年余り日向国に勢力を拡大してきたが、10代義祐の時、木崎原合戦で島津氏に大敗し、都於郡城は落城、伊東氏は一族を連れて豊後に落ち延びた。島津氏は都於郡城に鎌田出雲守を入城させたが、豊臣秀吉の九州平定により、島津家久が佐土原j城に入城し、都於郡城もその領有下となったが、徳川期に入り、元和の一国一城令で廃城となった。

本丸切岸遠望

堀跡の土塁

右は馬場跡

堀跡

堀跡、右は馬場跡か

堀切

お蔵跡の土塁

本丸切岸

奥の城方面

本丸と奥の城間の空堀

奥の城の空堀・切岸


奥の城虎口

虎口

虎口・土塁

土塁

奥の城


奥の城碑

本丸と奥の城間の空堀




ダイヤモンド富士(二の丸切岸越の太陽)

本丸切岸

本丸と二の丸間の大空堀

同(これでも3m以上埋められている)

本丸土塁

二の丸虎口

二の丸腰曲輪

二の丸本丸側土塁


二の丸



二の丸土塁

二の丸腰曲輪側の切岸

二の丸土塁から本丸方面


二の丸から三の丸切岸

二の丸から西の城方面

二の丸切岸

二の丸切岸と三の丸方面

三の丸切岸

西の城切岸

西の城腰曲輪


西の城切岸


西の城から三の丸方面

西の城

西の城帯曲輪

西の城

西の城から三の丸腰曲輪方面

西の城

急崖

西の城から霧島連峰方面

同から三財川

西の城と三の丸間の空堀

三の丸の切岸

三の丸から西の城方面

三の丸

三の丸土塁と二の丸方面

三の丸から二の丸

三の丸土塁

三の丸

三の丸

本丸虎口

同から二の丸方面

同から本丸と二の丸間の大空堀

本丸腰曲輪


本丸内部の空堀

本丸内の高屋山上陵跡碑

本丸土塁

同土塁切り口?

同土塁

本丸

同内部の土塁(陵墓絡みか)


伊東マンショの像

本丸枡形虎口



都於郡城碑・高屋山上陵跡碑

本丸切岸