日本の城跡

川手城(別称:革手城・河手府城)

訪問日 S62年12月
ポイント 美濃守護土岐氏累代の居城であり、後継争いで乱れた、文明美濃の乱の中心地である。岐阜市の南、荒田川と境川に挟まれた低地に位置する。
印象 現在は城跡に済美女子高があり、校庭の一隅に城碑がある。城址周辺に東屋敷・馬場等地名が残っているが、完全に市街地化してしまっている。遺構はない。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  土岐頼康が美濃・尾張・伊勢の三ヶ国の守護となった時、境川の北岸の当地に守護地の拠点として築城した。後継の頼康の弟の子、康行は足利義満に追われ、尾張国を斯波氏に、美濃国は土岐頼忠の守護地となり、宗家は頼忠に移った。この頃美濃の国司は武家に渡った。頼忠の次は頼益が後継となったが、頼益は幕府七頭の中に数えられ、土岐氏の再興者となった。次いで頼益の子持益が後継となり、関東管領として北畠満雅、義仁王、鎌倉公方足利持氏を破った。持益の守護代、斉藤利永は川手城防備の要害として加納に居城を構築した。利永の臣、石丸光利は加納の西に船田城を築き、この三城を美濃統治の拠点とした。その後、守護、更に守護代の後継争いが勃発し、急速に土岐氏の力は弱まり、風雲児斉藤道三の登場となる。