日本の城郭

久々利城

遠望
訪問日 S63年 4月
ポイント 久々利の地名は古く、景行天皇は美濃に行幸した折、ここに泳宮を営んだことからくる。木曽川に合流する久々利川の上流で、東・南・北を山に囲まれ、西にのみ開けた水田地帯の最先端にある。東・南・北の峠を越えた先は土岐・多治見・兼山に通じている。
印象 本丸・曲輪・空堀・土塁・井戸が残る。中世豪族の山城だ。城主悪五郎は金山城主斉藤正義を久々利城に招いて謀殺し、後年には金山城主森長可に悪五郎が招かれ謀殺されている。戦国時代の因果であろうか。遺構は江戸時代の千村氏の陣屋と重なっている。
地図
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略史  初代美濃守護土岐頼貞の孫、土岐康貞が南北朝期に築城。子の行春は地名の久々利氏を称し、以後当主は代々悪五郎を名乗った。戦国時代に入り、城主悪五郎は金山城主斎藤正義の配下に属していたが、斎藤道三の密命により正義を久々利城に招いて謀殺した。そして織田信長の美濃征服により、金山城に森可成が入ると、悪五郎はその配下となった。金山城主森可成が姉川で討死し、後継の長可は武田氏滅亡で川中島海津城の城主となったが、信長の死去で金山城に戻り、東美濃を攻略した。その際長可は不遜な動きをみせる悪五郎を金山城に招いて謀殺している。久々利城は家臣の戸田氏に守らせた。しかし長可は長久手の戦いで討死、忠政が城主となったが、秀吉死後勢力を蓄えた徳川家康によって関ヶ原の戦い前に川中島へ移封された。この時久々利城は金山城と共に廃城になったが、家康は関ヶ原の合戦で東軍に道を開けた山村・千村両氏に久々利の地を与えた。山村氏は後に木曽代官となったが、千村氏は城跡に陣屋を構え、子孫は代々尾張藩主付として仕え明治を迎えた。
登城口
曲輪
井戸
虎口