日本の城跡

小里城

遠望
訪問日 S63年 7月
ポイント 土岐川の支流、小里川の上流、河岸の山頂にある。武田軍に対する最前線基地として重要視された。しかし山頂の天守台石垣は謎が多い。天守台は五角形の石倉を有し安土城天守台に酷似しているが、現存する石積み技法や放置された多数の箭穴のある石材、無防備の曲輪等々から築城時期は?
印象 急流小里川の河岸にある。山麓に大手門があり、周辺に僅かに石垣と井戸が残る。そこから山城を目指し急坂を登るも、なかなか見えてこない。途中は殆んど遺構はない。やっと本丸へ、そこでびっくり。安土城と同じといわれる天守台の石垣が残るほか、あちこちに石が残る。それも巨岩を割ったままのもの、箭穴のある石が散らばっていた。まるですぐ直前まで石工達が働いていたそのままを残している。例えば本能寺の変を聞いた、信長方の小里氏が逃散したかのよう。城廻りの原点、興味深い城だ。
地図
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略史  小里氏の祖は美濃守護土岐成頼の四男元頼である。元頼は土岐家の内紛で兄政房と争って敗れたが、一代おいた光忠がこの地を領したのが始まりと言われる。戦国末期、武田信玄の西上により、東美濃は秋山信友が侵攻し織田方の岩村はじめ遠山氏と合戦し破った。遠山氏に従った小里氏はこの戦で親子共討死した。小里城は孫の光久の後見人叔父の光明が築城した。しかし本能寺の変で光久は信長とともに討死した為、小里家は光明が継いでいる。その後光明は織田信孝に従ったが、信孝が豊臣秀吉・織田信雄に屈して自刃した為、秀吉からの和を拒み子光直とともに徳川家康のもとに逃れた。関ヶ原の時、西軍の岩村城攻撃で軍功挙げ、光直の子光親は旧領を復したが子光重が嗣子なく、ここに小里家は断絶した。
登城口
大手門・石垣
城碑
井戸
登城途中
本丸・散らばる石材
  
 天守台石垣
 
  
本丸より
   天守台石垣
    
  石材
  割れた巨岩
  
箭穴のある巨岩
   
散らばる石材