日本の城跡

高須城(別称:高須御館・高洲城)

高津小・二本松
訪問日 S63年11月
ポイント 西に揖斐川、東に木曽・長良川が流れ、東西を三大河川に挟まれた低湿地帯にある。水害に襲われるが、肥沃な土地と水に恵まれている。更に尾張、伊勢国と接する位置にあり軍事的要衝であり、城主は頻繁に替わっている。
印象 城といっても規模は大きくなく、天守閣もなかった。城跡は学校や公共施設になっており、堀・土塁が僅かに残るのみだが、町を歩くと城下町の面影が至る所に感じられる。悲劇の宰相会津容保の生まれ故郷。西に養老山脈が迫り、養老渓谷がある。
地図
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略史  新田義貞の首級を藤島城で攻め取った越中の住人氏家重国は、恩賞として美濃石津郡内に地頭職を得て高須郷に居館を構えた。その後尾張津島の四家七苗字の一党である大橋重一が高須城を修築し本拠とした。次の次の重長の時、勝幡の織田信秀の娘をもらい織田家に属し、以後の城主は高津・平野・恒川・秋山・稲葉・日野・加藤等いずれも四家七苗字の縁者がなり、織田家に忠勤を励んだ。信長の死後、羽柴秀吉に反抗した為領地は没収され、以後日根野、加藤、高木氏が入城した。関が原で西軍に与した高木氏は城を去り、攻撃した徳永寿昌が入城立藩した。しかし嫡男昌重が大阪城石垣工事監督不行き届き等の咎で除封、幕府直轄領となった。次に小笠原貞信が再立藩、だが木曽川の水害に悩まされ所替えを希望し転封、再度幕領後尾張徳川光友の次男松平義行が立藩し尾張藩の支藩として今尾藩とともに尾張の防衛拠点となった。以降宗家との間で互いの藩主のやりとりがあった。幕末、義建の七男容保が会津藩主に、九男定敬が桑名藩主となり幕府を支えた。
屋敷門
高津小・二本松
 
高津小・堀
旧家
西大江川
    養老山地