日本の城跡

福島城

小学校内の城碑
訪問日 H25年 9月
ポイント 春日山城が鉄砲・大砲の使用によって近世の城郭としての機能が失った為、領土の中心地に大城郭を作る必要があった。福島城の北は日本海、東は当時の保倉川、南は外堀(現在の保倉川)を掘り、西は関川を挟んで府中と向き合った平城。直江津港の交易の直接支配を狙ったものであるが、たびたび洪水の被害に悩まされた。城の規模は巨大で、本丸・二の丸は堀を巡らせ、本丸の土塁は腰巻石を用い、三の丸の外側は関川と保倉川を利用した中世から近世城郭に移る築城形式を示す典型的な平城であった。
印象 直江津港のフェリー乗り場の近く。城跡は小学校・工場・住宅等に変貌している。小学校の中に土塁の腰巻石に使われたいた野面石で積まれた城碑が建っている。遺構はほとんど残っていないが、僅かに小学校の周囲に土塁や水壕の跡があった。大規模城郭であったようだが、残念至極である。
地図
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略史  福島城は春日山城主堀秀冶が近世城郭を作るべく、国政の中心地として日本海に近い当地に起工した。しかし秀冶は完成を見ずに没し、弱冠十二歳で春日山城主となった嗣子忠俊が1607年に福島城に入城した。忠俊は若い為、賢臣として名高い三条藩主堀直政が執政として堀家を支えたが、直政が病死すると直政の嗣子直清と坂戸城主直寄の間で執政権の争いが勃発した。越後支配を狙っていた徳川家康はこの機会を逃さず、忠俊に大藩を治める力不足として福島城を収公、争いの咎で忠俊、直清をそれぞれ奥羽に配流、直寄を飯山藩に移封した。家康は六男の忠輝を入城させ、信濃川中島四郡をあわせ、念願の越後支配をさせた。しかし忠輝は間もなく上越平野の中心、高田菩提が原に築城を始め、福島城完成から7年後に高田城に移り、福島城は短命に終わった。
石垣跡の石 本丸・内堀跡(現小学校) 同土塁・内堀跡
本丸・内堀跡 本丸・二の丸・内堀跡 三の丸・内堀跡
二の丸・内堀跡 二の丸跡の港神社 直江津港から福島城方面を見る