日本の城跡
御館
略史 関東管領上杉憲政は小田原城主北条氏康に敗れ、1552年に上杉謙信を頼り越後に逃れた。謙信は管領の館として御館を築城した。以後御館は上杉憲政の館であり、同時に謙信の政庁でもあった。しかし謙信の死去に伴い、養子で謙信の姉の嫁ぎ先である長尾政景の子の景勝と、同じく養子の小田原北条氏康の子の景虎(景勝の妹が妻)の間で家督相続争いが勃発した。景勝は謙信の遺言と称して春日山城を占拠、やむなく景虎は憲政の住む御館に立て籠もり対抗した。両軍は大場・府内等で戦闘を展開したが、景勝軍に北条氏や中越豪族の支援を頸城郡周辺の通路を占領され、景虎は郡内で孤立し糧道も断たれて御館は落城した。管領憲政は景虎の長男を伴い、和議仲裁の為春日山城に向かう途中で惨殺され、景虎も小田原へ逃れる途中の新井で鮫ヶ尾城主堀尾氏の謀反にあい自刃して果てた。その後本庄・神奈氏等を攻略して三年にわたった動乱も景勝が勝利し領国支配を確立していった。 |