日本の城跡

御館

御館公園
訪問日 H25年 9月
ポイント 御館は二重の堀に囲まれた東西250m、南北300mの大規模館であった。主郭は四方を堀に囲まれた東西120m、南北150mの規模で、現在の御館公園の6倍の規模であり、全国的にも屈指の館跡である。発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾のほか、武具や刀剣・陶磁器・香炉等が出土した。中にはゆがんだ銃弾もあり、御館の乱で使用されたものと言われ、激戦の激しさが想像できる。
印象 歴史公園になっており、石碑と説明があるのみ。御館跡の周囲に堀と土塁が残っていたが、北陸本線工事で線路敷と盛土用に館跡地が削られ、その後土塁も崩され堀が埋められた。更に宅地造成で消滅。直江津は全国的にも貴重な歴史遺構の福島城・御館跡を見事に消え去った町といえよう。残念!
地図
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略史  関東管領上杉憲政は小田原城主北条氏康に敗れ、1552年に上杉謙信を頼り越後に逃れた。謙信は管領の館として御館を築城した。以後御館は上杉憲政の館であり、同時に謙信の政庁でもあった。しかし謙信の死去に伴い、養子で謙信の姉の嫁ぎ先である長尾政景の子の景勝と、同じく養子の小田原北条氏康の子の景虎(景勝の妹が妻)の間で家督相続争いが勃発した。景勝は謙信の遺言と称して春日山城を占拠、やむなく景虎は憲政の住む御館に立て籠もり対抗した。両軍は大場・府内等で戦闘を展開したが、景勝軍に北条氏や中越豪族の支援を頸城郡周辺の通路を占領され、景虎は郡内で孤立し糧道も断たれて御館は落城した。管領憲政は景虎の長男を伴い、和議仲裁の為春日山城に向かう途中で惨殺され、景虎も小田原へ逃れる途中の新井で鮫ヶ尾城主堀尾氏の謀反にあい自刃して果てた。その後本庄・神奈氏等を攻略して三年にわたった動乱も景勝が勝利し領国支配を確立していった。
御館公園