日本の城跡
高田城(別称:鮫ヶ城・関城)
略史 堀氏から替って福島城主となった松平忠輝は、入城早々に高田に新城を築城する工事に掛った。忠輝の舅の伊達政宗を普請総裁として、諸大名を動員してわずか三ヶ月半で外形的な工事を終了した。ただ城郭の完成は50年後の松平光長の時代である。忠輝は大阪の陣の失敗や伊達政宗との野心を家康や秀忠の怒りにふれて、わずか二年で領地を没収、伊勢に流された。その後酒井家次を経て、家門の越前北庄松平忠直の弟松平忠昌が入封、忠昌が越前移封後、子の光長が入封した。光長は新田開発と殖産興業により、財政は充実し高田の全盛時代を現出し、世に越後中将家と知られた。しかしその後の跡目騒動で将軍綱吉の怒りを買い除封、幕領後稲葉・戸田・久松松平・榊原氏と譜代大名が続き明治を迎えた。その間財政は大地震・災害・飢饉で逼迫、藩政は人材の登用、倹約励行、殖産興業、温泉開発等図った。戊辰時、藩は勤王佐幕で分裂、一部藩士の神木隊が迷走したが城を開放して恭順。新政府軍に参陣し、越後・会津で戦った。 |