日本の城跡
蔵王堂城(別称:蔵王城)
略史 南北朝期にはこの地の争奪の争いから、蔵王堂が要害化されたようだが、南朝方の敗北により上杉氏が支配した。その後上杉氏の宰臣長尾氏(古志長尾氏)の一族が封され、長尾為景の弟の為重が蔵王堂城を築城した。古志長尾氏が栖西城に本拠を移すと、河田氏が入城したが、御館の乱後、景勝の家臣松川修衡が城主となった。上杉氏の会津移封後は堀秀冶が越後に入封し、当城には弟の親良が入城して古志一帯を治めた。しかし親良は、ほどなく病と称して甥の鶴千代に家督を譲り、京都の父秀政の旧宅に隠遁した。鶴千代は幼弱であった為、上田坂戸城主の堀直寄が補佐したが、1606年に鶴千代は夭逝、蔵王堂藩は坂戸藩に吸収された。その後堀家は内紛で転封、一時徳川家康の六男忠輝が越後に入封したが、大阪の陣の不手際の咎で松平家は断絶し、堀直寄が再度蔵王堂藩を立藩した。直寄は以前に開始し、中断していた信濃川の氾濫の被害から守る長岡新城の建築を進めた。次の牧野忠成の時に完成し蔵王堂城は廃城となったが、主郭には蔵王堂別当の安禅寺が、二の郭には蔵王堂が建立された。 |