日本の城跡

石岡外城

T郭の岡田稲荷神社
訪問日 H24年 4月
ポイント 当地に館を構えた理由ははっきりしないが、城の裏手は恋瀬川と霞ヶ浦の合流点に近く、当時は霞ヶ浦の水がもっと近くまで迫っていたと思われる。城はT郭とU郭の二つから構成され、それを補完する二つの郭で固めており、そしてそれぞれの郭を土塁と空堀によって囲まれていた。
印象 見つけるにひと苦労す。平城とのことだが、台地の上にある。結構広いようだが、農地・住宅の開発で大幅に改変され、遺構は空堀と土塁の一部が残るのみか。
地図
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略史  建保二年(1214)常陸大掾を継承して、常陸国衙で政務をとっていた大掾資幹は、鎌倉幕府より府中の地頭職を与えられ、この地に館を構え石岡城とした。この時以降130年間、ここが大掾氏の拠点となったが、高幹の子詮国の時に常陸国衙を拡張して府中城を築き、本拠を移したため石岡城は外城と呼ばれた。その後一族等が城主となったが天正十八年(1590)、大掾氏滅亡と共に廃城となった。
航空写真 T郭跡と土塁にある札掛神社 U郭跡・土塁
T郭 T郭空堀
遠望
  余湖くんより