日本の城跡

木原城

二重堀
訪問日 H24年 4月
ポイント 木原城は大手郭・三の曲輪・二の曲輪・稲荷曲輪・詰曲輪を梯格式に設け、詰曲輪の下にきぜ郭・弁天郭を置き、更に三の曲輪・大手郭の南方に外郭的に出丸・寺郭・物見砦を配し、大手・搦め手・南虎口を縄張りした巨大な中世城郭である。そして当城の特徴は三の曲輪・二の曲輪・詰曲輪と主要部に行くに従って、低くなっていることである。この巨大な曲輪群は到底、地方豪族の城としては築城できるものではなく、また守りきれるものではない。戦国期に城主土岐氏と組んだ後北条氏が、対佐竹氏への前線兵站基地として拡張したものであろう。城郭全体を大きな水堀で囲み、詰曲輪は南・西の深田で守られ、弁天郭には霞ヶ浦からの水路が延びていた。東側の詰曲輪・二の曲輪・三の曲輪間には巨大な土塁と空堀で固め、更にその先の丘陵とは浸食谷を加工した二重堀で隔てている。
印象 城址公園となって良く整備されている。有名な城郭ではないが、とにかく大きな城だ。高い土塁、深い堀、広い曲輪、沢山の郭、更に二重堀がすごかった。詰曲輪が公園となっているが、ここには古代の環濠集落跡があり、霞ヶ浦が近い等住みやすい環境であったらしい。二の曲輪は畑になっており、深い堀、高い土塁に囲まれていた。三の曲輪には学校があり、とにかく広大な曲輪だ。将兵の駐屯用だったのか。苦労して二重堀に、良くここまで造ったと感心するのみ。この堅固な城は結局、戦乱に合わずに最後まで目立たずに歴史から消えてしまったが、自分も大きすぎてつかみきれなかった。
地図
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略史  築城者ははっきりしないが、応永六年(1399)の近藤民部正藤原利貞という説と、永禄五年(1562)の江戸崎城主土岐治英が築き、家臣の近藤氏が居城したという説がある。木原城は三度の落城の歴史をもつ。最初は1574年、小田氏冶の家臣の江戸崎監物が佐竹氏に寝返って小田氏を滅ぼして落城。二度目は九年後に佐竹氏と芦名盛重らに滅ぼされ、三度目は豊臣秀吉の小田原征討の時、木原城主が後北条氏に加担した為落城した。
遠望、手前は堀と深田だった
弁天郭
搦め手口 同櫓台 稲荷曲輪
詰曲輪 同土塁、前の通路は堀跡 詰曲輪虎口方面 詰曲輪・稲荷曲輪方面 詰曲輪内古代環濠跡
堀跡・土塁
詰曲輪虎口・土塁・堀跡
同虎口土塁
詰曲輪・二の曲輪間の土橋 同反対側から 同間の空堀 二の曲輪土塁
二の曲輪 二の曲輪虎口 二の曲輪下の水堀・弁天池近く 稲荷曲輪・二の曲輪間の堀切 同間の空堀
稲荷曲輪から見た二の曲輪 稲荷曲輪、天守的な櫓があったらしい 同土塁 二の曲輪虎口
二の曲輪・三の曲輪間の空堀 三の曲輪内の土塁 同内の木原小学校 三の曲輪
大手から 同大手郭・左山手堀跡 大手郭
二重堀虎口
二重堀近くの外郭 二重堀
二重堀土橋 二重堀 二重堀内の土塁
三の曲輪南虎口
同近くの上記二重堀
寺郭・手前水堀跡 同・同 旧館跡方面・同