日本の城跡

真壁城

本丸・城碑
訪問日 H20年10月、H25年11月
ポイント 真壁城は古代の真壁郡家のあった由緒深い場所。地理的にも柿岡城と同様、筑波山を背にした所にあり戦乱に巻き込まれることが多かったが、その中で巧みに情勢を判断して勢力を伸ばしていった。城は台地上にあり、三重の水堀に囲まれていた。
印象 城門が雨引観音の山門として残っている。柱・梁とも太くどっしりした城門だ。真壁氏が秋田移封に際し寺に寄進したとの事。真壁城に行くと本丸に体育館が建っており、又かとがっかりしたがその後周辺を見て廻っていると、水堀跡・土塁・二の丸・三の丸等残っており、かなりの規模の城だ。継続的に発掘作業が続けられており今後が楽しみだ。再訪したい城だ。再訪。整備がかなり進んでいた。かなり大きな平城、三重の水堀と土塁で固めている。ただ、大きすぎて守るには大兵力が必要で、在地豪族では難しいのでは。
地図
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略史 平安末期、常陸大掾多気直幹の四男、長幹が築城して真壁氏を名乗った。長幹は奥州藤原氏征伐、頼朝に随行しての上洛等活躍、南北朝期には城主幹重が北畠親房に味方している。室町時代には慶幹が小栗氏に味方して、鎌倉公方足利持氏に攻められ落城したが、子の朝幹が上杉禅秀の乱で足利持氏を助けて真壁氏は再興した。戦国期には小田氏治、北条氏直らとの戦いに明け暮れたが、、徳川の代になり柿岡城に移っていた房幹は、主従関係にあった佐竹氏の秋田転封に従い角館に移封された。その後浅野長政が関ヶ原の軍功で隠居料として領有、三男の長重が真岡藩から後継立藩した。長重が笠間に移封後、稲葉正勝が入封したが後に真岡藩を継いだ為真壁藩は廃藩、天領になった。
雨引観音山門・移築城門
山門裏から
雨引観音
本丸
 本丸から二の丸・土橋
 
本丸
一の堀
三の丸から本丸
二の堀
二の堀
三の丸方面・土塁
  本丸に入り込む一の堀
  
本丸・城碑
本丸・稲荷神社
一の堀
二の丸
一の堀
二の丸・二の堀
二の丸・本丸方面
本丸土塁・一の堀
二の丸
本丸土塁
本丸一の堀
本丸南側土塁
以下H25年11月撮影分
二の丸周辺から三の丸、四の丸北側方面
同から三の丸、四の丸鹿島神社方面
二の丸堀南側
同北側 三の丸櫓台・堀 四の丸、鹿島神社方面 四の丸南側虎口・土塁 四の丸堀跡・外郭
四の丸土塁・堀跡 三の丸・四の丸土塁 同と本丸方面 四の丸鹿島神社の裏側にある土塁
同土塁 同土塁・堀
同土塁上
同から本丸方面 四の丸北側土塁 四の丸北側虎口・土塁 四の丸北側土塁・堀
三の丸櫓台・堀 三の丸北側土塁から本丸方面