日本の城跡

水戸城(別称:馬場城)

三の丸大空堀・土塁
訪問日 H11年 1月 、 H15年 4月
ポイント 那珂川と千波湖の間に突き出た台地の先端に築かれた要害。三方の自然の浸蝕崖を城壁に利用、残された西は五重の堀を構築。幕府の政策から石垣はなく、天守も建てられなかった。江戸と奥州を結ぶ重要な軍事拠点。
印象 川と沼に挟まれた台地上にあり大きな堀が幾重にも切ってある。石垣もなく紀州、尾張と比べると所領も少なかった為見劣りする。市街化が進んでおり遺構は少ないが大堀に水郡線や国道6号線がくぐり抜けているのが堅城ぶりを感じさせる。
地図
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略史  常陸大掾氏の拠点。その後常陸守護代の江戸通房が主家の佐竹氏と鎌倉公方の承認を得て、大掾氏不在時に水戸城を奪取、佐竹一家同位の格式を得た。しかし秀吉の小田原征討に参陣し常州の旗頭と認知された佐竹氏は不参陣の江戸氏を攻め水戸城を攻略、大掾氏も滅ぼし領国拡大を果した。しかし佐竹氏は関ヶ原の役での不参陣を咎められ秋田に国替えとなり家康の五男武田信吉が入封した。その後十男頼将、十一男頼房が入封し御三家に位置ずけられ、副将軍的立場になった。二代光国は大日本史の編纂に着手し、又歴史の流れに大義を求める水戸学を作り上げた。他方財政困難が顕著になり年貢の増徴、紙の専売強化、運河の開削等改革を実行したが解決出来なかった。斉昭は藤田東湖などの軽輩武士を登用し質素倹約の励行、軍制の改革と武備の充実、弘道館の創設、国産掛を新設して殖産興業等を断行した。そして水戸学による尊神廃仏の精神が尊王攘夷論を発展させて松蔭ら幕末の思想家を先導した。この為斉昭は幕府に嫌われ謹慎、ペリー来航後復権するも将軍後継問題等で井伊直弼と対立し再度謹慎。藩内の尊攘派と門閥派の確執が激化し尊攘派への弾圧は桜田門、坂下門外の変の激発を招いた。更に天狗党の乱で大量の断罪者を生み藩内抗争の混乱の中、薩長が主導する新政府から取り残された。
三の丸南御門
三の丸大空堀・土塁
三の丸
三の丸大空堀・土塁
弘道館・孔子廟門
弘道館・三の丸
大手橋
大手橋下の大空堀

本丸薬医門
大手橋下の大空堀
本丸・二の丸間の大空堀(JR水郡線)
  
三の丸小
弘道館・三の丸
水戸一高・本丸
本丸方面
水戸光国誕生地
備前堀
三の丸土塁
那珂川より水戸城