日本の城跡

額田城・陣屋(久慈見城)

主郭堀
訪問日 H21年 6月
ポイント 山田川・浅川が久慈川に合流し、広い低湿地を形成している地域に接した台地の先端に位置する。北側に防御を厚くし、主郭・U郭・V郭と連郭式に南から北に並び、土塁と空堀で固めている。主郭の西には阿弥陀寺郭を設けているが、その間には谷津を改造した二重堀がある。城は広大で、外郭まで含めると東西、南北約1キロあり、その周りには土塁と堀が囲んだ総構えの構造である。主郭周囲の堀は深く、広い上にあちこちの底から水が湧き出ており水堀のようである。
印象 入口がなかなか分からずうろうろする。額田幼稚園の脇の道を発見、案内あり。V郭、U郭、主郭と並んだ平城だ。大きな城だ。他にもあるが、このような平城で、大きな城を地方豪族が作るのか?かえって守りにくいだろうにーー。良く整備されている。急傾斜で深く、広い堀、そして要所にある土塁が見ごたえあった。阿弥陀寺も興味ある寺だ。案内通りに回っていたら、もと来た道にでた。
地図
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略史  鎌倉時代初期、佐竹氏五代義重の子義直が別家して築城した。その後額田氏六代義廉は各地を転戦、武功を挙げ所領を広げたが、足利尊氏に従い京都で転戦中に討死した。その跡は一族の昌直が継ぎ、北朝方の佐竹氏の一武将として勢力を拡大した。佐竹氏十二代義盛の時、嗣子なく後継争いが発生した。前関東管領上杉憲定の次男義憲を養子に迎えようとする宿老の常陸守護代小野崎氏・江戸氏に対し、佐竹氏一族の山入・長倉氏は反対し、譜代国人衆と共に挙兵した。これに額田氏九代義亮も参加したが、長期間の攻防で疲れ果て、ついには後継になった佐竹義憲の攻撃で討死し落城した。額田氏は九代で滅んだが、この合戦で功があった山尾城小野崎通重氏が佐竹氏より額田城主を命ぜられ、以後額田氏(小野崎額田氏)を称した。通重に嗣子がなかった為同族の水戸城主江戸通房の次男通栄を養子に迎えた。六代の照通の時江戸氏重臣の内紛に絡んで江戸氏を支援する主家佐竹氏と対立するようになった。照通は佐竹氏を牽制すべく伊達政宗と好を通じたが、かえって佐竹氏から謀反の疑いをかけられ、豊臣秀吉の小田原征伐後佐竹氏の攻撃を受け落城、小野崎額田氏も七代で滅び廃城となった。照通は伊達政宗を頼った後、関ヶ原で佐竹氏が秋田へ国替えになった為常陸に帰り、水戸の徳川頼房に仕えた。
遠望
V郭
  V郭とU郭間の虎口・土橋
  
同空堀・土塁
U郭
 主郭櫓台・土塁・空堀
 
主郭土塁・空堀
主郭空堀
主郭土塁・空堀
主郭
主郭土塁・櫓台・堀
主郭土塁・空堀
主郭堀底
同主郭土塁
主郭南側の泥堀
同方向
主郭と阿弥陀寺郭の土橋
阿弥陀寺郭
同・主郭方向を見る
 阿弥陀寺・土塁が残る
  
同墓地近くにある土塁