日本の城跡

小幡城

遠望・香取神社より
訪問日 H21年 6月、H25年11月
ポイント 三方を湿地に囲まれた西に広がる舌状台地にある。突き出た「折邪」は正面のほか側面の敵に対しても威力を発揮、また郭を囲む深い「堀底道」は七m以上あり、急こう配で武装した兵隊ではとても上がれない蟻地獄だ。敵を追い落とすと同時に、迷路状になっており、自然に外に追いやる仕組みになっている。高い所は情勢をつかむ櫓であろう。更に東に伸びる土塁上の「武者走り」は少ない城兵で両側の堀底道の敵を有効に攻撃できるようにしている。七郭の内、六郭がほぼ完全に残っている。
印象 全く知らなかった。写真のこんもりした森にすばらしい城郭が隠されていた。道路の工事中で泥道の細いたんぼ道を行く。森の中に入ってびっくりした。巨大な空堀の堀底道が迎えた。堀底道は複雑に入り組んでおり、通常は土塁の上から堀底を見るが、逆で高さも十m近くあり全く外が見えない迷路である。案内がなかったらギブアップだ。途中、櫓跡と思われる高台に上って漸く城の構造が分かってきた。写真で見てがっかり。あの迫りくる土塁の迫力がない。実物のすごさは忘れられない。中世の城郭が完存している、いまにも武者が出てくるようだ。再訪。友人に是非とも見てもらおうと案内。二度目でも堀底道には圧倒される。
地図
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略史  室町中期、常陸大掾詮幹の三男義幹によって築城され、九代義信まで在城した。その間五代義清の時、それまで親交を深めていた江戸氏との関係を断ち、対決した。この時は小田氏の援助で助かったが、八代の春信が江戸氏に殺され江戸氏が城主となった。その後九代義信は佐竹氏に身をよせたが、小田原北条氏の滅亡後、水戸城の江戸氏を攻撃し攻略した。小幡城も佐竹氏の支配下になったが、その佐竹氏も関ヶ原後、秋田へ国替えとなり小幡城も廃城となった。
案内
堀底道の入り口
U郭方面
振り返る
Y郭と犬走り土塁間の堀底道
Y郭とZ郭の堀底道
 左U郭を通り本郭方面
右U郭と武者走り間出口方向堀底道
左本郭、右武者走り土塁
X郭の櫓台へ
櫓台とX郭
X郭武者走り
案内
Y郭土塁
  本郭とX郭間の堀底
  
  W郭とX郭間の土橋
  
W郭
本郭からV郭方向
本郭方向
本郭案内
本郭
同・井戸
同・土塁
本郭脇、W郭
正面V郭、左本郭
正面U郭、右V郭、左本郭
堀底道
左U郭、右V郭
縄張り
土塁上の鳥の足状の木の根 本郭下の堀底道 Y郭と武者走り間の堀底道 本郭と武者走り間の堀底道
X郭とW郭間の土橋 W郭の土塁 U郭と土塁間の堀底道  以上9枚はH25年11月撮影分