日本の城跡

小田城

本丸涼台・城碑
訪問日 H14年 5月、H24年 4月
ポイント 小田氏は常陸守護職であったが南北朝期に後醍醐天皇の重臣萬里小路藤房を預かってからは天皇方となり、常陸の南朝方として重きをなし、一時は南朝方の重要な拠点となった。典型的な平城、四重ないし五重の土塁と堀を廻らしている。 
印象 以前に近くを通った時、平城で田畑の中にある城の印象が強く残った為再訪した。石垣はないが幾重にも掘った空堀が堅城ぶりを誇っていた。ただし鉄道(廃線)が城郭の真ん中を縦断しているのは?再訪。大変なことになった。整地中であった広場が雨上がりであった為、車のタイヤがめり込み脱出不可に。城跡整備中の植木屋さんのトラックに助けてもらう。堀・土塁・郭の一部が再現されていた。これから更に整備されそうだ。堅城のイメージがでてきた。これから更に整備が進むことを期待。大きな城だ。
地図
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略史  八田(小田)氏は頼朝に帰順し佐竹氏攻撃で軍功たて常陸守護職に任ぜられ築城した。更に幕府中枢に参画し勢力を拡大したが、南北朝時代には南朝方として北畠親房を迎え入れた。しかし足利方の高師冬の工作で開城、親房へ攻撃したため周囲の勢威を失った。戦国時代、小田城は越後の上杉謙信と小田原の北条氏との戦いの焦点になった。北条氏と結んだ小田氏は上杉氏に通じた佐竹氏らと戦いを繰り返したが終には攻め落とされ、鎌倉以来の名族小田氏は滅亡、廃城となった。
T曲輪・堀
T曲輪・関東鉄道遺跡
T曲輪鐘楼台の五輪の塔
   
遠望
T曲輪堀跡 T曲輪土塁 T曲輪水堀 U曲輪水堀
U曲輪水堀 T曲輪櫓台・水堀 U曲輪水堀 T曲輪とU曲輪間の水堀
T曲輪櫓台 X曲輪水堀 X曲輪土塁 T曲輪・櫓台
T曲輪内空堀 T曲輪土塁・水堀