日本の城跡
小川城(別称:薗部城)
略史 建久年間(1190頃)に下河辺政平が築城。政平は藤原秀郷の子孫で、政平の父の政義が下総下河辺荘に住み、下河辺姓を名乗った。政義は源頼朝の伊豆討伐戦で軍功を挙げ、次男の政平が小川の地頭として小川姓を名乗って土着した。数代続いた後の戦国期、府中の大掾氏の勢力伸長の押さえとして小田氏は家臣薗部兼泰を小川城に入城させた。しかし兼彦の時、大掾氏との争いを避けるべく娘を大掾氏に嫁がせた為、小田政治は兼彦を小川城から追い、政治の弟の左衛門尉を入れた。その後兼彦は一時江戸氏の支援のもと小川城主に返り咲いたが、小田氏と戦って敗れ結城氏を頼った。次の薗部兼基の時、佐竹義宣に攻められ落城、佐竹氏の家臣の茂木冶良が入城したが、関ヶ原役後に佐竹氏が出羽秋田へ転封となり茂木氏も退城した。江戸期戸沢政盛が入封したが、後に松岡城に移封され水戸藩領となった。水戸藩の藩主遊息所、運漕奉行所、医学研究所稽医館・小川郷校となったが、幕末の甲子の乱の際に焼失した。 |