日本の城跡

穴戸城・陣屋(別称:山尾城)

穴戸陣屋表門
訪問日 H21年 6月
ポイント 旧陣屋といわれる所が本丸跡で、北側方向に北の丸が連郭式に囲み、三重の堀が巡らされていた。南側を涸沼川が流れ、天然の堀の役目を果たしている。陣屋時代には、居館・講武所・米倉・修徳館・藩庁からなり、西南の土塁上に物見櫓があった。
印象 末広神社が鎮座している、本丸北側の土塁と南側の土塁が辛くも残っている。旧陣屋の表門が民家に移築され整備され残っていた。一方は整備され奇麗になり、他方は社協会館建設で堀が埋められるなど、アンバランスな対応だ。
地図
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略史  常陸守護職八田知家の四男、穴戸家政が鎌倉初期に築城した。家政は幕府に反抗した和田義盛軍と戦い討死したが、子孫がここを領し城主として栄えた。しかし十六代義処の時、佐竹氏との戦いで敗れ次の義長は真壁海老ケ島に移された。関ヶ原後、佐竹氏と共に秋田へ移った。佐竹氏に代わり秋田城主の秋田実季を減封のうえ穴戸に移したが、次の俊季の時陸奥三春に移され、穴戸は天領となった。その後水戸の徳川光圀の弟、松平頼雄が幕府より新封を与えられ立藩した。幕末、頼徳の時武田耕雲斉の一件に連座し除封、父頼位に旧封が給され明治を向えた。
 宍戸城本丸・末広神社
 
同土塁
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