日本の城跡
多気城
遠望
訪問日
H20年 9月、H24年 4月
ポイント
北条の北方の比高100m.の城山。主郭を頂点に2郭・3郭をもち、郭を囲む横堀、二重空堀、土塁、土橋、虎口等巨大な城郭山城。多気城・水守城とも平安・鎌倉時代の築城と言われるが、現存の遺構を見ると戦国時代、しかも強力な豪族が手を入れたものとの説あり。常陸の豪族佐竹氏が筑波地方支配の拠点として平城の小田城を支援、または替わる城として考えたものか。
印象
姿も美しい城だ。北条の遺跡案内に私有地につき入山禁止とあった為遠望のみ。後日、色々の人が登城しているようなので可能ならば再訪したい。再訪。前回入口が分らず断念したが、最近、所有者が建物を作る為発掘調査したとのことで行く。宝安寺の裏の墓地から登る。入山禁止の注意書きがあったが入れてもらう。途中、竪堀・横堀など見ながら登る。Vの郭・Uの郭・Tの郭に。しかし発掘した後に埋め戻したらしく、遺構の一部が消えていた。何が出来るのか、郭が整地され、舗装された道路が出来ていた。このような遺構が消えるのは残念だ。
地図
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略史 常陸大掾であった平国香の子貞盛の弟繁盛の子で、常陸大掾職の維幹が築城し水守から移った。以後一族が大掾職を世襲したが、義幹の時、富士裾野での曾我十郎・五郎の事件に際して、常陸守護職八田知家はこの事件を利用して義幹討伐を旗印に兵を集めた為、義幹は多気城の防備を強化すべく堀等増強した。しかし知家はこれを鎌倉幕府への反逆の証と頼朝に訴えた。その為義幹は筑波郡等の所領をすべて没収され、一族の馬場資幹に大掾職の地位と所領を与えられ、その身は園部泰綱に預けられた。
遠望
麓の熊野神社
岩壁
竪堀
外郭土塁
竪堀
堀切
横堀
同
同
外郭
同
三郭への土塁
横堀
同
同
同
同
Vの郭虎口
Vの郭
Uの郭
Uの郭とVの郭間の空堀
Uの郭からTの郭への道
同間の土橋
同の堀切
同反対側の堀切
Tの郭虎口
Tの郭帯郭
同
同
Tの郭
同
同
改変されたTの郭・Uの郭
Tの郭櫓台跡
Tの郭土塁
同
Tの郭下の横堀
Uの郭下の横堀
Vの郭下の外郭
山麓の横堀
同
北条地区