日本の城跡

玉造城(別称:轟城)

遠望
訪問日 H21年 7月
ポイント 城は梶無川東岸の比高20mの台地先端部にあり、三方を水田に囲まれた要害。T郭・U郭・V郭で構成され、腰郭・空堀・土塁で固めた連郭式城郭。堀で区別されているというより、それぞれ独立した小台地状になっているのが特色。
印象 水戸徳川家より山林を管理する任を与えられた大場氏の家が残っている。大場氏宅には光圀も何度か宿泊したとのこと。その裏山一体が玉造城。はじめなかなか分からず、中学生や地元の人に聞く。親切に教えてくれた。城跡はT郭・U郭・V郭が残るが、雑草・畑・雑木林になっている。T郭も登れるが雑草で足の踏み場もなかった。残念。内堀跡が道路になって郭を巡っている。城跡が個人所有になっているがT郭とU郭の所有者が違っていることも整備不良の原因かな?
地図
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略史  常陸大掾氏の一族の行方宗幹が平安末期に築城し、四男幹政が城主となった時玉造氏を名乗った。宗幹の子、太郎が小高、次郎が島崎、三郎が麻生を名乗って城主となった。室町期には幹綱が上杉禅秀の乱で鎌倉公方足利持氏方ににつき、禅秀方についた島崎長朝に討たれた。豊臣時代には重幹が同族の白井氏娘に絡み大掾清幹と争ったが和睦、この和睦を口実に佐竹氏に呼び出されて鹿島・行方の諸豪族と共に謀殺された。当城は佐竹氏家臣の大窪氏に落された。
T郭切岸・内堀道
案内
T郭土塁
T郭内堀道
T郭登城口
T郭
U郭土塁・内堀道
U郭腰郭・神社
U郭
U郭内堀道
V郭
T郭内堀道
玉造郷校案内
同進入路
麓の大場氏邸宅

                             大場家は江戸時代水戸藩の「大山守」を勤めた家柄。時には庄屋、御留川の川守も兼務。光圀も宿泊した。