日本の城跡

岩殿山城

遠望
訪問日 H14年 2月、H24年 6月
ポイント 駿河の久能城、上野の岩櫃城と並ぶ武田三名城の一つと言われる。峻険な山の頂上に本丸、両そでに二の丸、三の丸があり典型的な中世の山城。武田、北条二大勢力の中で重要な軍事拠点で、小山田氏にとって郡内を支配する要衝。ただ、通常の居住は都留の谷村館とし、当城は戦時の詰城であった。
印象 中央線大月駅前に岩肌を剥き出しに迫ってくる。一種異様な感じを受ける。その山頂に本丸等遺構がある。戦国の要害城の雰囲気そのものだ。自領と領民を守ろうとして主君勝頼主従の入城を拒否、裏切り者の汚名を敢てかぶった小山田信茂の心境は。再訪。いよいよ本城へ。きついが整備された道を登る。巨岩が頭上に迫ってくる。途中、巨石が阻む揚木戸へ、ここを防げば、まず入城は出来ないだろう。それから番所跡、馬屋跡等を過ぎると物見台に、ここからの眺望がすばらしい。次に三郭、二郭、そして主郭へ。山全体が城郭、自然の要害を利用し、人工的な防禦設備は少ない。主郭も狭く、アンテナ設備に占領されている。その先に堀切、郭で固めているが、居住性はない。山頂近くに今も水を湛える池が二つある、すごい。主郭で地元の女性に会う。この日三回も山城を往復しているそうだ、びっくりだ。帰りに円通寺跡に降りたが、途中の洞窟にも感嘆す。この城にどれだけの兵が駐屯出来たのであろうか。苦しかったが楽しい山登りだった。
地図
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略史  源頼朝の命で武蔵多摩郡小山田庄から郡内領の守護職として小山田行重が着任し築城。小山田氏は関東平氏の出であるが叔父の畠山重忠の推挙で頼朝に忠節を尽すが、重忠の失脚で一族も勢力を失った。しかし武田家と縁を結んだことから一族は台頭し都留郡七郷を所有した。その後再三の北条軍の攻撃で打撃を受けたが武田軍の支援も得て耐え、以後武田家の親類衆に加わり先頭となって勇戦した。しかし最後は逃げのびてきた勝頼主従の入城を拒否、武田家は滅亡したが、小山田氏も織田信長に処断された。当城は徳川家康が管理したが谷村に勝山城が築城された為廃城に。
遠望
中腹の丸山公園
   岩壁
登城坂
同巨岩
散らばる巨岩 揚城戸跡 同上から
番所跡 西物見台 帯郭 馬屋跡
南物見台 同から見た稚児落し岩壁方面 同から見た丸山公園 猿橋方面
兵舎跡から南物見台方面 馬場跡 帯郭周辺から 帯郭 馬洗い池
蔵屋敷跡へ 蔵屋敷跡 三郭(藪の中) 二郭(左)
主郭烽火台 主郭 東物見台 主郭虎口
その下の搦め手口方面土橋・堀切 同堀切一本目 同・竪堀 土橋から見た主郭虎口 その先の搦め手口堀切二本目
同・竪堀 搦め手口登城坂 七社権現の岩窟 登城坂
同竪堀 円通寺跡 大手口の堀切 遠望 途中のツバメの子