日本の城跡
新府城(別名:韮崎城)
略史 武田氏は信玄死後、勝頼が継いだが、三河長篠で織田・徳川連合軍に敗れ凋落が始った。勝頼は甲斐国内で敵を迎え撃つ備えとして、堀一重の躑躅ヶ崎館では不可能と考え、新城を築城することを決意し真田昌幸に命じた。工事は昼夜兼行で行われ、その年の暮には入城することができた。しかし翌年二月には織田・徳川の大軍が甲斐に進軍を開始、勝頼は新府城を死守する決意であったが、親類衆の木曽義昌・穴山信君に裏切られ孤立無援となり戦意を喪失、在城わずか60日余で自ら新府城に火をかけ、頼みの小山田信茂のこもる岩殿山城に落ち延びていった。だが信茂にも裏切られ、一族郎党は天目山麓田野で自害し、名門武田氏は滅亡した。 |