日本の城跡

武田八幡神社

随神門の神門
訪問日 H23年11月
ポイント 新羅三郎義光の曾孫信義は武田八幡宮の社前で元服して武田氏を名乗り甲斐武田氏が発祥した。檜皮葺き・三間社流造の本殿等が国指定の重要文化財。時の権力者から厚い保護を受けてきており、将軍や領主の交替の時には、巡見役や役人が参拝し、国内が不穏な場合には領主からの神事執行が依頼されたという。
印象 由緒ある神社。神門・神楽殿・拝殿・本殿と続く。いずれも歴史を感じる建物だ。昔は大きなお祭りもあり、賑やかな御輿がねり歩き、たくさんの人々が参拝に訪れていたようだが、今は深々とした雰囲気の中にあった。神社から白山城に向おうとしたら、熊注意の鉄作と熊用の罠があり、早々に道を変えた。
地図
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略史  平安初期に土地の神、武田王の祠廟に、宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称した。甲斐国には石和八幡宮、窪八幡神社など武田氏によって勧請された八幡社が分布しているが、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行われた後、武田信義が付近に白山城を築いて居城とするとともに武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建をした。戦国期に武田信玄は大檀主として嫡子義信とともに再建した。織田信長の武田征伐に際しては、武田勝頼の妻、北条夫人が勝頼の武運を祈念して願文を奉じた。武田氏滅亡後、甲斐の領主となった徳川家康は社領を安堵し、社殿の造営を行っている。徳川時代にも樹木伐採・放牧の禁止や、社殿の修理等歴代将軍・城主が保護してきた。
拝殿へ 本殿 本殿・若宮八幡宮 神楽殿 隣接する為朝神社
二の鳥居