日本の城跡

武田館

館跡
訪問日 H23年11月
ポイント 武田八幡神社から坂を下った所、後の山に白山城がある。規模は250uで、典型的な方形館だったらしいが、今は畑の中に石碑があるのみ。近くで信義時代の青磁や白磁の陶器が出土している。願成寺に墓所がある。
印象 なかなか場所がわからず、地元のおばさんに聞いてやっと畑の中に発見。土塁が残るとのことであったが発見できず。ただ、お屋敷・的場・お堀といった地名が残っており、武家館があったことが偲ばれる。カメラの操作ミスでモノクロとカラーが混じってしまった。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  新羅三郎義光の曾孫、源清光の次男信義は武田八幡神社で元服して武田信義と名乗り、この武田荘に館を構え、背後の山に詰城として白山城を築き勢力を伸ばした。そして清光の後継となり谷戸城主となった逸見光長をしのぎ、甲斐源氏の惣領的地位にたった。源頼朝が挙兵した時、信義も出兵して富士川の戦いなどで軍功を挙げ、駿河守護に任命された。その後も信義は甲斐騎馬軍団を率いて、義経の平家追討作戦に参陣して軍功を挙げた。しかし平家滅亡後、源氏の棟梁頼朝は駿遠一帯に勢力を拡大した甲斐武田一族を恐れ圧力をかけるようになった。まず信義の長男忠頼を鎌倉に招いて謀殺、その弟達も次々に殺された。そして駿河守を解任された信義は失意のうちに死去した。
畑の中の館跡 同碑 武田氏関連地図 信義墓所の願成寺