日本の城跡

躑躅ヶ崎館

館跡・武田神社
訪問日 H 4年10月、H24年 5月
ポイント 信玄は甲斐を囲む山脈を要害とし、”人は石垣、人は城”の如く、積極的に外に打って出ることが甲斐を守る道とし、館は一重の堀と土塁で充分とした。ただ館は甲府盆地を展望できる山麓にあり、詰の城の要害山城とあわせ強固な防御態勢になっている。
印象 甲府駅の北口から北に向かって真直ぐでゆるやかな坂道を登っていくと、突当りに信玄を祀る武田神社がある。そこが躑躅ヶ崎の館跡。道路の周りは当時の武家屋敷と町屋であり、落着いた雰囲気を感じる。神社は鬱蒼と木々が生茂っており、しんとした中に”人は城”の心意気を感じた。20年後に再訪。要害山城に登城した帰りに寄る。前回は館跡に立つ武田神社を参拝した感じだが、今回訪問しびっくりした。館というより、これは堅牢な立派な城郭だ。しっかりと水堀と高い土塁が囲み、主郭を西曲輪・味噌曲輪・無名曲輪・御隠居曲輪・大手曲輪等が固めている。今後の整備が進むにつれ、その全容と堅牢さが更に分ってこよう。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  武田信虎はそれまでの石和館から躑躅ヶ崎に新しい館を築いて移り領国経営の本拠とした。更に詰の城として要害山に城を築城し有事に備えた。その後信玄は信濃、駿府、東美濃など掌握し甲府は覇者の都として栄えた。しかし城郭は周囲の山々を天然の要害として築かなかったが、勝頼の時織田・徳川連合軍に設楽原で完敗、武田氏の勢力が衰退するに従い韮崎に新府城を築城して移った。徳川氏により甲府城が築城され当館の役目は終わった。
水堀
神社正面石垣
館碑
主郭(神社拝殿)
大手馬出し
馬出しから要害山城方面
 
主郭
同水堀
主郭(東曲輪)
主郭(中曲輪)
同天守台石垣
同天守台
大手虎口
同土塁
同水堀
大手馬出しから主郭方面
大手馬出し
同三日月堀跡
同馬出し
同虎口
同水堀・土塁
同土塁
同馬出し・武家屋敷街方面
同馬出し前の曲輪
主郭北側水堀
同北側無名曲輪
同御隠居曲輪方面
同北側馬出し跡
同味噌曲輪方面
西曲輪水堀
同土塁
同水堀
西曲輪・主郭間の水堀土口
西曲輪桝形虎口
西曲輪下部から上部方面
同上部の土塁
同上部から下部方面
同上部から水堀・主郭方面
同北側虎口
同桝形から
同石垣
同土塁
同土橋
同空堀
同から主郭土塁・天守台方面
同と主郭間の水堀
同から主郭への虎口
同土塁
主郭前の高坂弾正屋敷跡
西曲輪前の穴山玄蕃屋敷跡(梅翁曲輪)