日本の城跡

秋元城(別称:小糸城・青鬼城)

虎口
訪問日 H24年 8月
ポイント 秋元城は鹿野山の山裾の先端部に位置し、北・東・南の三方は断崖になっており、西方は痩せ尾根一本で鹿野山と繋がる等要害性の高い立地である。北側の小糸川は天然の外堀の役目を果たす等、自然地形を削って平らにした郭や郭の縁辺に設けられた土手状の土塁、尾根筋を遮断した堀切がある。このように戦国の山城の姿を良く伝えている。
印象 小雨ふる薄暗い日に上る。駐車場が登城口の所に造られありがたい。小糸川の崖縁を館跡を見ながら上り始める。すぐに郭・土塁・横堀・虎口が出てくる。期待が膨らむ。雨で濡れて滑りそうな坂道を注意深く上る。迫力ある虎口を過ぎて更に上ると、居住用の広い千畳に出る。周囲には土塁が築かれていたと思われる。更に行くと段々上になった主郭の西向三段の郭に出る。夏草で遺構が分かりずらいが、それでも整備が良くしっかり分った。主郭南側に横堀・土橋・虎口が藪の中にあるが、急斜面で下りられなかった。次に土橋を渡り西郭へ。ここは鹿野山に繋がる尾根筋だが、遺構の姿にびっくりした。風雪でかなり削りとられたろうが、迫力ある櫓台・大堀切・横堀等が次から次と自分に迫ってきた。見応え十分な山城だった。
地図
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略史  秋元城は下野守護職の宇都宮氏一族の秋元義正が、戦国期に小糸にあった古城を里見義豊の命で清和市場に移転・築城した。里見氏は後北条氏との第二次国府台合戦で大敗し安房に敗走、これを追走した後北条氏は池和田城、そして秋元城を攻め落し、更に久留里城まで侵攻し落した。秋元城主の義久は城下での戦いで負傷し自刃した。秋元城は後北条氏の城代・斎藤氏を置いたが、豊臣秀吉の小田原征討の時、浅野長政軍に攻められ逃亡した。戦後里見氏は小田原への遅参を咎められ上総を没収され、浅野長政が秋元城を接収し廃城となった。
麓の城碑 遠望 右崖下に小糸川 城館跡
千駄蔵 虎口 同右側に走る竪堀
虎口 同周辺の切岸 内側より見た虎口  千畳郭虎口手前の小郭 出丸への進入路
出丸虎口 出丸(大手道を監視した) 千畳虎口の土塁 同虎口 同内側より
千畳 同の土塁跡 同土塁 千畳西側の湿地帯
同内の水 西向三段の一段目から二段目を見る 同二段目から三段目を見る 同から千畳を見る 同から西郭方面の郭を見る
同から鹿野山を見る(白井ゴルフ場クラブハウスが見える) 三段目を見る 三段目 同から下の郭を見る
三段目土塁
同土塁で三段目最高所
同南側堀切 同堀切とその先の郭 同堀切の土橋
西向三段の切岸と下の郭 同崖縁の洞穴 下の郭より西向三段を見る 西郭への土橋、両側の夏草下は堀切
西郭・土塁 西郭 同土塁 同最高所の八幡社へ
同・八幡社 同にある井戸跡 大堀切
八幡社方向に振り返る
同大堀切
次の郭へ・土塁 痩せ尾根・土塁
次の郭
同郭下の横堀 同郭の左岩壁にある綱渡りの細道 細く尖った同郭を振り返る 断崖
大堀切
同下の横堀
同畝堀
  同箱堀
更に尾根を行く
次の頂き、ここで終わって帰る