日本の城跡

富津台場(旧元洲砲台)

遠望
訪問日 H22年 3月
ポイント 富津洲の先端に位置し、江戸湾の外に砲を向け、7門を配置した。台場は波打ち際よりやや離れている。台場は前面に弾よけ土手を築き、その内部に砲台を据え、砲は横一列に配置し、各砲の間にも土手を設けていた。現在残る遺構は明治政府によって修築されたものらしい。周囲を廻る堀には海水を取り入れ、斜面の崩落を防ぐため腰巻石垣が積まれている。この台場は東京湾に侵入する敵を砲撃する目的であったが、実際に射撃することはなく、日露戦争時にははずされて旅順要塞の攻略に使用されたという。大正期には陸軍技術本部の大砲試射場となり、砲台は戦時中まで維持されていた。
印象 地元の人に聞いてもなかなか見つからず苦戦。第一海堡を案内されたが、他にあるはずと思い捜す。駐車場の前に水堀に囲まれた小山を発見。ぐるっと一周すると橋で繋がった虎口を見つける。石垣も残っていた。入ると土塁に囲まれた広場があり、土塁を弾よけにした砲台が7門あった。弾薬庫あとらしい石垣に囲まれた部屋もある等期待以上の遺構に結構興奮した。台上から東京湾を望めた。また大正期陸軍技術本部の管理下になっていたせいか、台場周辺に分厚いコンクリートの機関銃の銃眼等も残っていた。
地図
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略史  江戸幕府は海防を重視して、白河藩主松平定信に伊豆・相模・房総の沿岸を巡視させた。房総を担当する定信は房総海岸の防備、砲台の建設を命じ、1812年に安房の洲の崎台場・白子遠見番所・上総百首台場・富津遊軍出張所が構築された。10年後、洲の崎台場が富津に移され、対岸の久里浜の鶴崎、浦賀の平根山・観音崎台場と共に富津台場・百首台場が浦賀水道を守備した。しかし1858年の修好通商条約の締結で海防の緊張がゆるみ、房総沿岸の台場は廃止されていった。
虎口
内部の土塁・砲台跡
同・虎口方面
砲台
台上より東京湾
弾薬庫周辺
弾薬庫
弾薬庫換気塔
土塁より虎口橋
水堀・台場
陸軍技術研究所富津試験所の銃眼
東京湾の第一海保