日本の城跡

勝浦城

遠望
訪問日 H24年 8月
ポイント 城は八幡岬の先端500mにわたる所で、海面から40mの高さの断崖絶壁の上にある。三方を海に囲まれ、海が外堀の役目を果たし、海による要害的性質を持つ中世の海城である。縄張りは一の郭・二の郭・三の郭で構成、更に北西の崖下に軍船を備える砂浜があった。各郭の規模は地勢状小さく、多くの兵力を収容出来なかった為、城兵は城の入口から北に(現・鳴海神社周辺)かけての細長い谷に置かれ、木戸や空堀・土塁で固めていた。なお正木頼忠の娘”お万”は後北条氏の人質になっていたが、後北条氏の滅亡に拠り徳川家康の側室として召し出され、後に紀伊徳川家及び水戸徳川家の祖となった頼宣・頼房を生んでいる。
印象 半島の先端にある。両側は絶壁で狭い。公園になった時に通路を造ったと思われ、城郭の縄張りとは異なり、遺構の発見は難しかった。多分、尾根上を歩けば、遭遇出来たろうが藪や険しい地勢であきらめた。攻撃は陸からのみで、堀切や門で固めていたらしい。崖下の当時の船泊りであった砂浜で夏休みの家族連れが砂遊びをしていた。
地図
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略史  安房の里見義堯は東上総方面に侵攻を重ねていた為、小田原の後北条氏に属する上総真里谷城主武田信興は、里見氏の夷隅侵略に備えて次男の信清に命じて夷隅郡小田喜郷に根古屋城を築城した。この時信清は勝浦にも砦を築き、里見氏の夷隅侵略の第一線の備えとした。しかし20年程後、根古屋城主武田朝信は里見氏の老将正木時茂と苅谷ヶ原で戦い、敗死し武田氏は滅亡した。これ以降夷隅地方は里見氏の領土となり、大多喜根古屋城に正木時茂が入城し、勝浦の砦には弟の正木時忠が入り、砦を大改修して近世城郭とした。時忠の孫の代にあたる三代頼忠は里見氏に反逆、水軍をもって勢力を拡大、再三の里見氏の攻撃も勝浦城に拠って撃退した。しかし豊臣秀吉の小田原征討後、徳川四天王の一人本多忠勝に攻め落とされ、安房に逃れ里見氏の客臣となった為、勝浦城は廃城となった。
船泊り
八幡神社(最高所・物見台) 二の郭から主郭方面 二の郭から八幡神社方面
勝浦湾の鳥居
主郭から北東方面・勝浦燈台
主郭から南方面・先端部(物見)
主郭 同・お万の方の像
主郭堀底道?
主郭堀切?
二の郭切岸
二の郭の腰郭
三の郭
三の郭堀切?