日本の城跡

椎津城(別称:城山)

椎津川越しの遠望
訪問日 H22年 4月
ポイント 椎津外郭の台地続きの北端部にある。北側の麓は椎津川が流れ、水堀の役目を果たしている。台地の一番高い所が主郭で、その南側に二重の空堀を経て五霊台と呼ばれるU郭がある。城の西側は急崖の台地が続き、彎曲部と突出部が南に伸びている。また台地南側も急崖が続いている。西側の急崖下の街の先が東京湾である。ここは椎津川が湾に注ぎこむ絶好の自然港湾で海上交通、物流、軍事の拠点であった。椎津城はこの拠点を守る重要城郭であった。
印象 鶴牧陣屋の近くの海寄りにある。今は埋め立てられているが、昔は海が城山の近くまで来ていたらしい。八坂神社の裏山。多分この辺だと思い、坂道を登っていくと城塁らしき崖を発見、更に登っていくと住宅の裏に城跡があった。案内はあったが、私有地で竹柵で侵入を拒んでいたが、やっと捜し当てた為強引に入れてもらった。やはり竹林になっていたが、ここは管理されているらしい。周囲に土塁・曲輪・空堀・城塁・郭が残っていた。この郭の裏にU郭があったが、住宅開発で変形していた。見つけた時はやったーといった感じだった。
地図
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略史  千葉氏の一族、椎津三郎や三浦氏一族の三浦定勝が鎌倉初期に築城したとの説や、戦国初期に武田信長が上総に侵攻して真里谷城に本拠を構え、当城を築城したともある。その後宗家真里谷信隆と嫡出の信応との間で内紛が起き、小田原北条氏、他方小弓御所足利義明・里見義堯を巻き込んで争った結果、信隆の降伏で終わった。次の第一次国府台合戦では小弓御所側が敗戦し、里見氏は領国に引き揚げ、北条軍が君津に侵攻した。北条軍が引き揚げた後は、信隆・信政父子が椎津城に入城し、防衛施設の整備に注力した。しかし信隆の死を契機に里見氏は、万木城の土岐頼定、大多喜城の正木大膳亮を先鋒に立てて攻めた為、椎津勢は大敗、信政は自殺した。里見勢は以降上総の殆んどを手中に収め、椎津城には木曽左馬介を置いた。。その後の第二次国府台合戦では里見義弘敗戦し領国に引き揚げた為、北条氏政はこれを追い、椎津城を攻めて木曽氏を追って白幡六郎を置いた。豊臣秀吉の小田原征討後の徳川家康の関東入部で、徳川軍により椎津城は落城した。
主郭城塁
主郭土塁
主郭 同・物見台跡
同・曲輪
同・城碑
主郭虎口 主郭曲輪