日本の城跡

高藤山城

遠望
訪問日 H22年 1月
ポイント 上総地域の中央、一宮の西方に位置し、天然の要害に手を加えた山城。80mの城山から一宮城、勝見城が、更に太平洋を望めることから、一宮周辺地域を眼下に捉える戦略地点。地形を利用した二つの郭と曲輪があり、周囲には低い土塁が取り巻き、尾根の大部分は堀切で断ち切っている。これらから現存する遺構は戦国期のものである。
印象 標高の割に、結構きつい登城道だった。山頂を削平し、堀切で仕切られて郭が残るほか、腰曲輪、尾根づたいにもっと遺構があるようだが、藪が酷く断念。地方豪族の戦国山城の雰囲気は十分。カーナビが無いと見つけるのに苦労するだろう。
地図
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略史  上総権介平広常の居城。平安時代後期、平常家は上総権介に任ぜられ、以後60年に亘り上総平氏の棟梁として勢力を伸ばしたが、4代広常の代が最強であった。平安末期、源頼朝は伊豆で挙兵の折り、和田義盛を当城に遣わし援軍を要請した。広常は長南・周東他の精兵を率いて隅田川原で頼朝の幕下となり、富士川の戦い、佐竹秀義・木曾義仲の追討と数々の武勲を挙げ重臣となった。しかし生来の傲慢さと強大な戦力を恐れられ、鎌倉幕府成立前に鎌倉の営中で梶原景時に謀殺された。その後広常の弟金田氏や里見氏らの城として戦国末期まで使われていたと思われる。
登城口 登城途中の崖 主郭土塁 堀切 1郭(手前)と2郭
 3郭
主郭下の曲輪
1郭 2郭方面 山頂より一宮方面
登城途中の4郭