日本の城跡
高藤山城
略史 上総権介平広常の居城。平安時代後期、平常家は上総権介に任ぜられ、以後60年に亘り上総平氏の棟梁として勢力を伸ばしたが、4代広常の代が最強であった。平安末期、源頼朝は伊豆で挙兵の折り、和田義盛を当城に遣わし援軍を要請した。広常は長南・周東他の精兵を率いて隅田川原で頼朝の幕下となり、富士川の戦い、佐竹秀義・木曾義仲の追討と数々の武勲を挙げ重臣となった。しかし生来の傲慢さと強大な戦力を恐れられ、鎌倉幕府成立前に鎌倉の営中で梶原景時に謀殺された。その後広常の弟金田氏や里見氏らの城として戦国末期まで使われていたと思われる。 |