日本の城跡

伊勢崎陣屋

陣屋跡
訪問日 H25年 4月
ポイント 広瀬川の東岸にあり、川近くに本丸を置き、周囲を二の丸で囲んだ。本丸門は南側東寄りで、搦め手の虎口は東北にあり、南側土居が張り出して横郭になっていた。二の丸は陣屋の大半を占め、政庁や学習塾・武家屋敷があり、東側中央に東門、南側に追手門がある。東門には曲尺馬だしが設けられ、隠郭まであったが、追手門の移動で牢屋敷に変わった。北面は雁木折で、南の追手の西側の土居は折となって門前を守り、略式の外枡形が構えられた。
印象 町の中に埋没して、遺構はない。跡地の小学校は改築と地域交流センター建設が行われていた。同聚院に武家屋敷門が残っているほか、近隣の森村家に陣屋の式台・書院が移築が残っているのみ。森村家は旗本駒井家の地方代官で、千坪の敷地に主屋・土蔵・長屋・表門・裏門・馬屋が配され、主屋は二階建て瓦ぶき入母屋造りで、正面に陣屋の式台を配置し、西側に陣屋の書院を移築しており、圧倒された。森村家周辺の建物も凄い。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  室町期に那波氏所属の赤石氏が同聚院辺りに築城。那波宗俊氏が敗死後は由良氏、上杉氏、由良氏、そして北条氏と所属が変遷した。徳川家康の関東入部により、白井城主本多広孝の支配となったが、五年後稲垣長茂が入封、大阪夏の陣後越後に転封となり、赤石城は廃城となった。その後、厩橋城主酒井重忠の子忠世が分与され善養寺に陣屋を構え、利根川治水、伊勢崎銘仙事業等に尽力した。伊勢崎陣屋は酒井忠寛が、1681年に旧赤石城の南方に築城した。忠温の時、水路の開削で広瀬・桃井堤を完成し灌漑に成功した。酒井氏は後に姫路へ移ったが、伊勢崎の地は酒井氏が九代領有して明治を迎えた。
陣屋跡地の北小学校・交流センター 同にある大正時代建造の旧時報鐘楼 北小学校の全身赤石小学校の門柱 同説明
同脇の武家門通り 同聚院武家屋敷門 同説明 森村家 同表門
同説明 主屋式台 隣の豪農