日本の城跡

松井田城(別称:小屋城・霞ヶ城・堅田城)

遠望
訪問日 H22年 9月
ポイント 松井田城は碓氷川と九十九川に挟まれた尾根上に築かれた山城。城の北側には古い碓氷道・東山道が通り、南には中山道が通っている。関東西北の要衝碓氷峠に備える重要拠点である。現在の城跡は大道寺時代の遺構で、畝状堀・馬出し・大堀切等北条氏の築城法を示し、堀切数48、郭数52に及び、東半の安中郭と西半の大道寺郭からなる一城別郭の構えである。
印象 道路の案内もあり、そのまま大手筋を車で駐車場へ。北側尾根を歩いて行くと早速、当城の特色である堀切に遭う。そのまま進み、まず水の手に。ここまで来て藪の多さにがっかり。更に安中忠政が武田を相手に善戦した安中郭、その後更に修築した大道寺政繁の城を見て回る。いずれも尾根を削平し、多くの堀切・竪堀・土塁、そして郭を構築した堅城であった。大堀切はじめ多くの遺構が良く整備されて残っており、藪の無い冬に来るべき城だった。
地図
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略史  この地の豪族安中忠清が榎下城に移った後、諏訪左馬助が入城した。その後忠清の子忠政が修築して居城とし、安中に嫡子忠成を入れた。安中氏は関東進出を狙う武田信玄と再三にわたり戦ったが、1561年に信玄は高田繁頼を下し、安中・松井田間の八幡平に陣城を築いた。そして三年後、武田氏は安中・松井田城を攻撃、まず未完成の安中城の忠成が降った。松井田城の忠政は頑強に抵抗したが、期待した箕輪城の長野氏の救援が来ず、城兵の裏切りもあり終に開城、自刃。信玄は小宮山氏に城を受け取らせ、家臣の市川氏を城代としたが武田氏の滅亡後、織田信長の部将滝川一益が着城し、津田勝正を入城させた。しかし信長の死後、北条氏直との神流川合戦で敗れた滝川一益は本国伊勢に帰った。氏直は松井田城を占領後、大道寺政繁を先鋒に小諸まで進出し徳川勢と対陣したが、やがて松井田に撤収し、城をおおいに改修した。豊臣秀吉の小田原征討で前田利家を主将とする上杉景勝・真田昌幸らの北国勢は碓氷峠を越えて松井田城を攻撃したが落城せず、包囲持久戦に入った。北国勢は上州各城を攻略後、再度松井田城を総攻撃、城主大道寺政繁父氏は善戦したが終に降伏、落城した。政繁はその後、北国勢の先鋒となって関東各地を転戦したが、その責任を責められ自決させられた。城は豊臣方の支配となったが廃城に。
大手筋から入った北側尾根の堀切 次の堀切 次の食い違い虎口とセットした堀切
縄張り図
水の手途中の竪堀
途中から見た谷川
水の手
安中郭途中の竪堀
藪ではっきり分からないがS字堀?
安中郭入口
浅間丸
安中郭堀切
安中郭東二の郭
同竪堀
安中郭本丸と東二の郭間の堀切
安中郭主郭・大道寺政繁記念碑
安中郭主郭
同・桝形虎口(良く分からず)
安中郭と本郭間の堀切
本郭櫓台
本郭城塁
本郭隅櫓台上に立つ虚空菩薩堂
本郭
本郭から馬出しを
本郭と馬出し間の堀切
馬出し
馬出しと二の郭間の堀切
二の郭へ
二の郭
二の郭土塁
本郭と二の郭間の堀切
その先にある大手門跡礎石あり
二の郭下の連続横堀
本郭下の横堀(藪で分かりにくいが)
同じく竪堀
城下の田園風景