日本の城跡
松井田城(別称:小屋城・霞ヶ城・堅田城)
略史 この地の豪族安中忠清が榎下城に移った後、諏訪左馬助が入城した。その後忠清の子忠政が修築して居城とし、安中に嫡子忠成を入れた。安中氏は関東進出を狙う武田信玄と再三にわたり戦ったが、1561年に信玄は高田繁頼を下し、安中・松井田間の八幡平に陣城を築いた。そして三年後、武田氏は安中・松井田城を攻撃、まず未完成の安中城の忠成が降った。松井田城の忠政は頑強に抵抗したが、期待した箕輪城の長野氏の救援が来ず、城兵の裏切りもあり終に開城、自刃。信玄は小宮山氏に城を受け取らせ、家臣の市川氏を城代としたが武田氏の滅亡後、織田信長の部将滝川一益が着城し、津田勝正を入城させた。しかし信長の死後、北条氏直との神流川合戦で敗れた滝川一益は本国伊勢に帰った。氏直は松井田城を占領後、大道寺政繁を先鋒に小諸まで進出し徳川勢と対陣したが、やがて松井田に撤収し、城をおおいに改修した。豊臣秀吉の小田原征討で前田利家を主将とする上杉景勝・真田昌幸らの北国勢は碓氷峠を越えて松井田城を攻撃したが落城せず、包囲持久戦に入った。北国勢は上州各城を攻略後、再度松井田城を総攻撃、城主大道寺政繁父氏は善戦したが終に降伏、落城した。政繁はその後、北国勢の先鋒となって関東各地を転戦したが、その責任を責められ自決させられた。城は豊臣方の支配となったが廃城に。 |