日本の城跡

沼田城(別称:倉内城・霞城)

本丸西櫓台虎口と石垣と階段
訪問日 H21年10月
ポイント 沼田盆地の中央、利根川・薄根川・片品川の三大流に囲まれ、合流点三方が険しい断崖上にある天然の要害。関東最北の平地で、上越国境の要衝である。従って戦国時代、真田氏は上杉、北条、武田氏間の勢力争いに絶えず翻弄されたが巧みな世渡り術で独立領主の道を歩んだ。江戸幕府は重要拠点の城として、関八州では異例ともいえる天守建築を認め、江戸城と張り合うような五層天守を造り、更に本格的石垣構造になっていた。城郭は崖端にある本丸は崖以外の三面を堀と土居で固め、北側を捨郭と保科郭が守った、東側と南側に二の丸・三の丸を設け、三の丸の外側を大きな外郭でカバーした。そして東から南は総郭をもって城下町を抱えていた。
印象 結構大きな城だ。三方を川に挟まれた急崖を利用、堅城だ。薄根川の支流天狗竜川越しに見ると一段と実感する。テニスコート、野球場、武道館等々市民の憩いの公園として整備されている。その為か、城郭としての雰囲気は少ない。城址から見る、谷川岳・三国連峰が雄大な姿がすばらしいらしい、また来たい。
地図
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略史  戦国時代、豪族沼田顕泰が築城したが、戦国大名小田原の北条、越後の上杉、甲斐の武田氏間の勢力争いに翻弄された。その頃三男朝憲に譲って隠退していた顕泰は、側室の子景義を溺愛するあまり城主にせんとし、混乱の中で城主朝憲が謀殺され、顕泰一派も会津に逃亡する事態となり沼田氏は没落した。城主を失った沼田城はこの後も上杉、北条、武田氏が北上州の拠点として奪い合った。上杉謙信死去に伴う相続争い「御館の乱」で北条方の上杉景虎が敗れたが、北条方の沼田城主藤田信吉は武田方の真田昌幸に城を渡した。ところが武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、信長の家臣滝川一益が入城、信長の横死により滝川氏は昌幸に城を返し西に去った。これを見た北条氏は沼田城攻略に取り掛かったが、名だたる堅城に加え上杉景勝の支援を得て支えた。この時信長の後継、豊臣秀吉が北条氏上洛の条件であった沼田城所有を認めさせ、城は北条氏の所有となった。ところが沼田城代猪俣氏が真田の名胡桃城を奪取、怒った秀吉は小田原征伐を起こし、早雲以来の北条氏は没落し、再度真田氏のものとなった。その間徳川家康の人質となっていた嫡男信幸は本多忠勝の娘を家康の養女として娶り沼田城に配され、三国峠を抑える重要拠点として五層天守を持つ城郭に拡充した。関が原で真田氏は二分、戦後家康に与した真田信幸が立藩。真田氏はその後農村復興に努めるなど領国経営を積極的に進めたが、四代信澄の時両国橋の架け替え工事の不手際等で改易になり、城は跡形もなく破却された。幕領後本多正永が入封し再建したが館程度の簡略なものであった。沼田藩はその後も老中輩出の譜代藩に。黒田氏に次いで土岐氏が入封し明治まで在藩した。歴代藩主は要職を歴任したが、戊辰時の藩主頼之は桑名藩主の六男だが、東征軍に従い三国戦争で上野諸藩とともに会津藩と戦った。
縄張り図
本丸・太鼓櫓
同北東隅天守閣跡の相英霊殿
 
同裏の堀跡
同西櫓台・御殿桜
同案内
同石垣・階段
同石垣
本丸門跡
本丸堀案内
同堀と真田氏時代の石垣
三の丸から本丸堀方面
二の丸土塁
二の丸から三の丸
本丸帯郭に残る石垣
  
三の丸土塁
同土塁・堀切
捨郭と保科郭間の堀切
本丸北の捨郭
捨郭の天狗堂(沼田祭りの天狗みこし)
薄根川の支流天狗竜川越しに城を見る
沼田城遠望